「日刊まにら新聞」ウェブ

1992年にマニラで創刊した「日刊まにら新聞」のウェブサイトです。フィリピン発のニュースを毎日配信しています。

マニラ
37度-28度
両替レート
1万円=P3,600
$100=P5,735

2月24日のまにら新聞から

ハロハロ

[ 746字|2014.2.24|社会 (society)|ハロハロ ]

 マニラ日本人学校の「校友歌」が37年前にできた経緯をひょんなことから知った。作詞・作曲したのは当時のマニラ駐在の元ニチメン社員で、マニラ日本人会副会長だった蜷川親秀氏。まだ補修校の時代で、日本大使館の広報文化センターの一室を借りて細々と授業が行われていた。駐在員の増加で教室が手狭になり、校舎建設の話が父兄の間で持ち上がった。日本人会の会長の丸紅の室伏良三氏と蜷川氏が奔走、企業からの寄付も集めて昭和52年の校舎上棟式にこぎ着けたという。しかし、校歌がなかったため、マニラ日本人会に公募。多数の応募作品の中から、生徒80人の投票で蜷川氏の作品が校歌に選ばれたという。

 そこからちょっとした落ちが付く。「校歌としてはイマイチだ」「もっと勇壮なマーチ風の曲がいい」という声が出て、「副校歌」にあたる校友歌としての採用が決まったという。

 一、きよらかな朝の光に うたごえは今日も流れる はるばると海をこえて ここにつどう学びの友よ

 二、風わたるヤシの葉かげに 学びやは白くかがやき ハイビスカス ブウゲビリヤ 色にあふれ日ざしにはえる(三番は略)

 特に二番はフィリピンの自然の美しさと、新装なった校舎やそこに学ぶ子供たちの将来を寿ぐ気持ちが平易に表現されており、校歌としてぴったりと私は思う。楽譜にも才能をしのばせるものがある。

 校友歌の誕生秘話は蜷川氏が大学の同窓会誌「如水会々報」に2年ほど前に発表、目にとまった。蜷川氏は秘話披露の数カ月後に死去している。私もこれまでいくつもの校歌を歌ってきたが、どのようにして校歌ができたかなどについて聞いた記憶はないし、詮索したこともない。経緯を知ると、日本経済の発展ぶりをしのばせるマニラ日本人学校の校友歌である。(実)

社会 (society)