「日刊まにら新聞」ウェブ

1992年にマニラで創刊した「日刊まにら新聞」のウェブサイトです。フィリピン発のニュースを毎日配信しています。

マニラ
33度-25度
両替レート
1万円=P3,670
$100=P5760

11月12日のまにら新聞から

台風ヨランダ(30号)

[ 1332字|2013.11.12|気象 災害 (nature)|ビサヤ地方台風災害 ]

ビサヤ地方レイテ州タクロバン市内には台風の傷跡が生々しく残っていた

がれきや倒木が散乱するタクロバン市内=10日午後3時ごろ、同市内で写す

 猛烈な台風ヨランダ(30号)の直撃を受け、甚大な被害が発生したビサヤ地方レイテ州タクロバン市。台風が過ぎ晴天となった10日、市内には台風の傷跡が生々しく残っていた。タクロバン空港から市の中心地を結ぶ直線の幹線道には、折れた電柱などのがれきや暴風でなぎ倒された樹木が散乱、車両は通行困難な状態。路肩には、トタン板などで体を隠しただけの遺体や、むき出しのままの犬や豚の死骸が横たわっていた。

 異臭を放つ遺体は死後硬直し、ほとんどがどす黒く変色していた。中には亡くなった時と同じ姿勢とみられる「両手を大きく広げたまま」の遺体もあった。幹線道を歩くと腐乱臭が鼻を突くため、行き交う住民は鼻をシャツなどで覆いながら歩いていた。海岸付近の家屋の多くの屋根が吹き飛び、ガラスの破片が町中に散らばっていた。海面を見ると、逆さになった大型トラックやコンテナが浮いていた。

 空港周辺は救援物資を受け取りに来る市内各地の住民でごった返した。炎天下、多くの住民が空港に詰め掛けていた。空港内は国軍に警備され、原則住民は立ち入り禁止になっており、物資の受け渡しは鉄のフェンス越しに行われた。町のあちこちでコメ、コーンビーフ、コーヒーなどが詰まった救援物資の袋を手に持つ住民が多く見られた。

 レジー・タブーフさん(35)は「商店は台風で壊されてしまったから現金は使い道がない。何よりも食料と水が欲しい」と、被災地の厳しい環境を訴えた。ジュン・ランドランサさん(38)は「おれもビールが飲みたい」とつぶやきながら、どこからか手に入れた酒を飲む近所の住民をうらやましげに眺めていた。

 空港から徒歩約1時間かけて物資を家まで運んでいたチェリー・メンドサさん(40)は「台風で38歳の弟を亡くした」という。弟はポリオを患っており、避難せずに2階建ての自宅にとどまった。しかし、高潮による浸水の高さは2階部分まで達し、弟は命を落とした。知らせを受けたとき、母(65)は泣き崩れたという。メンドサさんは「悲しいことだが、事実を受け入れるしかない」と毅然(きぜん)と話した。

 トロピアノ・アパンさん(40)は「バキバキバキッという柱が折れる音や、電線がちぎれる音がして恐ろしかった」と台風襲来時の様子を振り返った。

 アパンさんも台風で親族を亡くした一人だ。海岸沿いに住んでいた叔母一家は避難指示が出ても、自宅で待機していた。その後、暴風雨が強まり、結局、台風直撃後も避難所まで移動できず、叔母といとこ2人が帰らぬ人となった。「早く避難しろと何度も言ったのに」。

 首都圏在住の弁護士、チェスター・シンコさん(44)は被害状況をニュースで知り、ふるさとに残る母(69)の安否を確認しに来た。母に別状はなかったが、2階建ての実家が半壊した。「今まで多くの台風を経験したが、こんなに大きな被害は初めて。きれいなふるさとが無くなってしまい、とても悲しい」と、なぎ倒されたヤシの木を指さしながら眉間にしわを寄せた。

 市内には電気が通じる宿泊施設が残されていないため、報道関係者は空港内にある半壊した建物に詰め掛け、政府関係者の非常用電源を借りながら、ニュースを送信した。(鈴木貫太郎)

気象 災害 (nature)