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ひと交差点

第7回 ・ 比体操選手の指導に情熱 男子代表コーチの釘宮宗大さん

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ユーロ選手を指導する釘宮コーチ=10月31日、首都圏マニラ市で写す

 首都圏マニラ市のリサール・メモリアル・スポーツコンプレックスの敷地内に、体操競技用の体育館がある。蒸し暑い館内では、日本人コーチがフィリピン代表の体操選手の指導に汗を流している。今年10月から、フィリピン男子代表の常勤コーチに就任した、釘宮宗大さん(29)だ。釘宮さんは「少しでも日本の技術を伝えたい」と話し、指導に熱がこもる。

 「ほとんどの選手が、体操の全ての種目で基礎となる倒立をきちんとできていなかった」。釘宮コーチは、就任当初に見た代表選手の印象をこう振り返った。フィリピン体操界では基礎がおろそかにされてきた一方で、個々の選手の身体能力が高いためか、特定の種目で高難度の動きをこなす。種目別ならば世界大会レベルでもメダルを狙えるという。

 フィリピンは、これまでのオリンピック史上で、銀メダルを2個、銅メダルを7個獲得している。しかし1996年のアトランタ五輪で、男子ボクシング・ライトフライ級で、銀メダルを獲得したのが最後となる。体操ではメダルはおろか、入賞を果たした選手もいない。「ジュニア(17歳以下)の選手を長期的に育てれば、2020年の東京五輪出場も目指せる」と釘宮コーチの夢は広がる。

 当面、14年4月にカナダで開かれる環太平洋体操競技選手権に照準を合わせ、レベルの底上げに力を入れている。2年に1度開催されるこの大会には、日本、米国、ロシアなど強豪国も参加する。もし教え子が、メダルを獲得すれば、比体操史上初の快挙となる。

 岩手県出身の釘宮コーチが体操に出会ったのは、中学生の時。見学だけのつもりだったが、宙返りなどを教わるうちに、「重力に逆らって、頭が下になる感覚」がやみつきになった。高校時代は東北大会で個人総合で優勝を果たした。複数の大学から推薦入学の声もあったが「トップレベルで自分の力を試してみたい」と思い、体操の名門、順天堂大学に一般入試で進学した。

 大学院生時代に参加した全日本社会人選手権大会で、跳馬で着地に失敗し、右膝に大けがを負い、現役引退を決意。しかし、引退後も体操への思いは冷めず、「自分が学んだ理論を後輩に伝えられたら」と指導者としての道を選んだ。

 12年に転機がやってきた。日本体操協会からスリランカの代表コーチ就任を打診されたのだ。「海外での指導経験は将来きっと役に立つ」と思い、引き受けた。ところがスリランカに行ってみると、十分な設備もなく、ろくな指導もできない状態だった。自身が病気にかかった時、保険の手続きが遅れ、衛生状態の悪い病院に入院させられたこともあったという。

 フィリピンでは、首都圏パシッグ市にある比政府関係者用の寮に住んでいる。運転手はいないため、毎日タクシーでマニラ市まで通勤している。釘宮コーチは「スリランカに比べれば、フィリピンは設備も、ある程度そろっているし、選手も潜在力がある」と笑顔を見せる。

 フィリピンの教育・スポーツ振興を支援している一般財団法人「ZippyAction」の代表、白井涼さん(33)によると、同財団の支援を受け、ジュニアのエース、カルロス・ユーロ選手(13)が体操研修で12年に訪日した際、日本の体操関係者から「(ユーロ選手は)きちんと指導し、練習を積めば、モノになる」とお墨付きをもらった。

 そのユーロ選手は「釘宮コーチが来てから基礎練習が増えました」と話す。釘宮コーチは就任後、柔軟性をつけるためのストレッチや、筋力を強化する体幹トレーニングを日々の練習に導入した。体操選手が必要とする最低限の体をつくるためである。

 10月末にシンガポールで開かれた非公式な大会に参加するため、選手たちと話していると、大会直前にもかかわらず、ユーロ選手も含め多くの選手の演技構成さえ決まっていないことが分かった。釘宮コーチは急ぎ選手たちと相談し、即席の演技構成を作ったという。「日本では考えられないこと。これからは少しずつ比の体操協会の体質も変えていけたら」と話す。

 ユーロ選手は2013年、ベルギーで行われた世界選手権の種目別「床運動」で、金メダルを獲得した白井健三選手の大ファン。それまでは内村航平選手のファンだったが、日本史上最年少となる17歳で金メダルを獲得した白井選手と、床運動を得意とする自分を重ね、ファンになったという。ユーロ選手は「まだ実力不足だが、いつか僕もワールドカップに出てメダルを取りたい」と、はにかみながら夢を語った。(鈴木貫太郎)

(2013.11.25)

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