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9月9日のまにら新聞から

名所探訪「ラグナ州パキル町」

[ 1379字|2007.9.9|社会 (society)|名所探訪 ]

祭り「トゥルンバ」の故郷

 ラグナ州パキル町は首都圏からラグナ湖を挟んで反対側、湖とシェラマドレ山脈に囲まれた静かな漁村である。日本人戦没者慰霊碑のある人工の湖、カリラヤ湖にも近く、州都サンタクルスを経由するとマニラから車で二時間ほど。

 こじんまりとした町の中心部には一七三二年に完成し、その後、二度の地震災害と三度の火事を耐え抜いたといわれる石造りの教会が建っている。サンペドロ・アルカンタラ教区教会である。この教会だけが人目を引く建造物といえるような、ひっそりとした人口二万人弱の町だが、実は半年間もの長期にわたって繰り広げられる「トゥルンバ」祭りの舞台となるのだ。

 この教会に納められている「悲しみの聖母マリア」の絵と像を引き出し、信者たちがタガログ語の「トゥムンバ(倒れる)」が語源とされる掛け声「トゥルンバ」を連呼して飛び上がり、歌い踊る。近隣諸州から数万人が集まり、他の祭りでは見られない熱狂ぶりが知られている。

 「トゥルンバ」祭の起源に関する言い伝えはこうだ。一七八八年九月初旬、スペイン人修道士たちが「悲しみの聖母マリア」を描いた約二十センチ四方のの油絵をラグナ湖を横断する船で運搬していたが、突然の嵐で船が沈没した。その後の金曜日、漁師たちが網に掛かっている油絵を発見、そのまま船に乗せて近くの町に行こうとした。ところが絵が急に重量を増して船を漕いでも前進しない。突風がパキル町の方角に吹くのでその方向にだけ進んだ。

 漁師たちが、その気味の悪い絵をパキル町の湖岸にあった岩に乗せて去った後、町の女性たちが絵を持ち帰ろうとした。しかし、数人がかりでも持ち上がらない。教区司祭と聖歌隊、村人たちが集まり、祈りと賛美歌を捧げ、歌と踊りを披露するとやっと絵が動かせるようになった。そこで全員で歌い踊りながら教会まで運んだのだという。

 この祭りは「ルピ」とも呼ばれ、聖週間が始まる「枝の主日」(パームサンデー)の直前の金曜日に第一回目が行われる。その後、二カ月ほどの間に計六回の「ルピ」をほぼ二週間に一回の割合で行い、最後の七回目は絵が教会に持ち込まれた九月十五日前後となる。特に、最後の祭りでは絵と聖像が行列を作って近くのピンアス山の頂上まで運ばれ、人々は町の水泳場などで水を浴びる習わしになっている。

 パキル町役場の観光担当員、ララ・ガリェロスさん(26)によると、トゥルンバ祭りの最高潮時には町の人口が二、三倍に膨れ上がるという。「昔は車や宿泊施設もなかったので、町民が遠方から来る人たちに家を開放してホームステイさせました。私の祖父もケソン州ルクバンから家族と一緒に祭りに参加した際、祖母の実家にたまたま世話になり、それが縁で結婚したと聞いています」と話した。

 教会から古びているが清楚な家並みを通り抜けると、白壁で囲まれた小奇麗な町の直営プールがあった。普段は大人、子供がのんびり泳ぐ田舎の水泳場だが、祭りの日に大勢の人が一度に水浴するという。すぐ近くにカトリック聖人像から水が流れ出る水汲み場がていねいに造られている。プールに入りきれなかった人に聖水を提供するのだろう。

 フィリピノ・ホスピタリティーとは本来、宗教的情熱を分かち持った他所の住民たちを受け入れる心優しさのことなのだろう。バキル町の人々がそうであるように。(澤田公伸)

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