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1月23日のまにら新聞から

アギナルド生家

[ 1195字|2005.1.23|社会 (society)|名所探訪 ]

「民衆の独立」宣した豪邸

 首都圏に隣接するカビテ州カウィット町。マニラ湾沿いを南西へ向けて下る街道沿いにアギナルド初代大統領の生家は建つ。黒船日本来航の八年前、一八四五年の創建。植民地支配からの解放闘争だったフィリピン革命後、一九二〇年代に大規模改修され、白壁にえんじ色の屋根が映える現在の姿となった。

 革命運動の最高指導者、初代大統領がスペインからの比独立を宣言した舞台として知られ、屋内にある説明書きは独立宣言時の様子をこう伝える。

 「式典は一八九八年六月十二日の日曜日、午後四時から午後五時ごろまで続いた。トランペットが式典の開始を告げると数千人の群衆はしんと静まりかえった。アギナルド将軍の顧問、バウティスタが比民衆の独立を宣言し、続いてアギナルド将軍が比国行進曲(現在の国歌)に合わせて国旗を振った」

 生家の総床面積は約千百二十平方メートル。一、二階部分が一般公開されている。

 ガレージや物置として使われていた一階部分は、革命運動の歴史的経緯を説明するパネル類や初代大統領の遺品などを展示。パネルの一枚は、カビテ州が革命運動の中心地になった必然性を「マニラに近く、港が栄え、欧州の開明的な知識が浸透していた。カビテのエリートたちは大農園を通した植民地支配の不当性、残虐性に気付き、変革を渇望するようになった」と説明する。

 町長の家に生を受けた初代大統領も、若くして「開明的な知識」に触れ、「変革を渇望したエリート」の一人だったのだろう。居住スペースの二階部分には、初代大統領や家族の豪華な寝室、広大な客間、来賓用の食堂など「富裕層にのみ許された空間」が広がる。

 圧巻は、一階にあるボーリングレーンとプール、そして二階調理場の一角に残る保冷庫だ。来館者の案内を十五年近く続ける国立歴史研究所(NHI)職員のラリー・マナロさん(38)は言う。

 「ボーリングレーンとプールは一九二〇年代に初代大統領が増築させた。保冷庫用の氷は米国ボストンから船でわざわざ運ばせていた。氷の価格は分からないが、富の大きさを推察できる」

 変革を求めて革命運動に身を投じ、「比民衆の独立」を宣した英雄の子孫は、今も古里カウィット町の有力者として君臨し続けている。同町で生まれ育ったマナロさんは「現町長と副町長はアギナルドの孫。カウィットは今も昔もアギナルド一族の町です」と話す。

 初代大統領はその死の約一年前、条件付きで生家と七千六百平方メートルの敷地を政府に寄贈した。条件は二つ。死の瞬間まで生家にとどまることを認めることと、死後は生家敷地内に遺体を安置することだった。その願い通り、六四年二月に九十四年間の生涯を閉じた初代大統領の遺体は生家の裏庭に安置され、比民衆と「アギナルド一族の町」の行く末を見守り続けている。   (酒井善彦)

 生家は月曜日を除く午前八時︱午後五時、一般公開されている。入場無料。

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