「日刊まにら新聞」ウェブ

1992年にマニラで創刊した「日刊まにら新聞」のウェブサイトです。フィリピン発のニュースを毎日配信しています。

マニラ
37度-27度
両替レート
1万円=P3,710
$100=P5720

12月1日のまにら新聞から

台風ヨランダ(30号)

[ 1437字|2013.12.1|気象 災害 (nature) ]

ルソン地方北部から安否確認のため被災地に駆けつけた人も。親類のつながりの強さ垣間見る

無料バスでタクロバン市から避難してきた被災者ら=20日午後、首都圏パサイ市のビリヤモール空軍基地で写す

 台風ヨランダ(30号)で自宅や生計のすべてを失ったビサヤ地方レイテ、東サマール両州の被災者の多くが、遠く離れた親類を頼り、首都圏やセブ州に避難している。中には、4日間かけてルソン地方北部のカガヤン州からレイテ州に駆けつけて親族の安否を確認し、首都圏に連れてきた人や、一族14人で親類宅に身を寄せると話す人も。避難者の中継地ビリヤモール空軍基地(パサイ市)で、フィリピン人の肉親愛の強さを垣間見た。

 同基地には、比米両軍の輸送機C130や、無料バスに乗った被災者が、13日から連日到着。国連の推計では、1日当たり約5千人が首都圏やセブ州に避難しており、その数は数万人に上るとみられる。

 長期間にわたり通信網が断たれていたため、食料も水もない被災地から、とにかく輸送機などに飛び乗って逃げて来た人たちがほとんど。社会福祉開発省や有志の支援で、親類に連絡して迎えに来てもらったり、無料送迎サービスで親類宅まで送ってもらう。同基地では被災から約2週間が経過した時点で親類と連絡が取れなかったり、頼る先がない家族はほぼゼロだった。

 ルソン地方カガヤン州に住むマリベ・エグピットさん(35)は台風襲来の日、レイテ州タクロバン市に住む兄夫婦の安否が気掛かりだった。被害の状況をニュースで知り、携帯電話で兄に連絡を取ろうとしたが、一向につながらない。テレビで壊滅した市内を見て心配でたまらなくなり、直撃から4日後の12日、直線距離で約800キロ離れたタクロバン市行きを決意。夫と共にバスに飛び乗った。近所の住民たちに頼んで回り、約1万ペソを借りた。

 何度もバスを乗り換え、同市に着いたのは3日後の15日夜。手がかりは持参した兄夫婦の写真のみ。2日間かけて市内の避難所を回り、奇跡的に兄夫婦と子供3人を見つけた。

 「とにかく生きていてくれて神に感謝した。見つけた時は、安堵(あんど)とうれしさで、全員で泣きながら抱き合った」

 エグピットさんの兄の妻、アニリン・ロマノさん(34)は台風直撃時、幼い子供3人とバナナを売っている公設市場の建物にいた。水が入ってきたので、2階に逃げたが、高潮はすぐ足下まで迫ったという。

 沿岸部の自宅にいた夫は高潮の中、奇跡的に助かったが、自宅は跡形もなくなくなった。隣近所の複数の住民が高潮に飲まれた。「3日間コメがなく、ほとんど食べられなかった。子供たちは少しの水とビスケットしか口にしていない。義妹がはるばるカガヤン州から来てくれるなんて思いもしなかった。本当に良かった」

 生活の再建のため、夫は単身、タクロバン市に残り、ロマノさんと3人の子供だけ、エグピットさん夫婦と共に無料バスで24時間以上かけて空軍基地にたどり着いた。「今は先のことは考えられないが、収入源さえなんとかなれば、タクロバンにまた戻りたい」とロマノさん。

 やっと兄夫婦を見つけ出したエグピットさん夫婦の資金は底をつき、カガヤン州まで戻る交通費をこれから工面しなければ、という。

 台風が最初に上陸した東サマール州ギワン町から輸送機で避難してきたジョンビー・カバクダさん(23)は、一族14人で首都圏マニラ市に住むおばの家に身を寄せると話した。

 自宅は全壊。タクロバン市に住む親類1人が亡くなった。「おばが空軍基地まで迎えに来てくれる。(14人で世話になるが)家には十分スペースがあるから大丈夫だと言って快く受け入れてくれた」と話した。(大矢南)

気象 災害 (nature)