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11月19日のまにら新聞から

台風ヨランダ(30号)

[ 1423字|2013.11.19|気象 災害 (nature)|ビサヤ地方台風災害 ]

被災地へ4 タクロバン市対岸のバサイ町。被災直後の光景のまま。支援も行き届かず

がれきの山にたなびくフィリピン国旗。「支援を」の声はアキノ大統領に届かなかった=18日午後0時ごろ、ビサヤ地方サマール州バサイ町で写す

 「支援物資が足りない」。町役場の広報担当、メルシー・カボボイさん(44)はそう言い切った。18日午前11時、記者はビサヤ地方サマール州バサイ町にたどり着いた。同町は、太平洋に面した南海岸線に位置する。町の中心部は至る所で家が崩れ、すべての路地に木や石のがれきがうず高く積み上がっていた。直撃した台風ヨランダ(30号)で崩壊した町並みは、10日経った今も被災直後の光景のまま。車体のつぶれたバン型乗用車が道に転がり、石造りの家々はなぎ倒されていた。

 町内では死者190人、行方不明者38人と、多くの犠牲が出た。海に近いサンアントニオ・バランガイ(最小行政区)では、6メートルほどの高波が村を襲い、強い風が多くの家を吹き飛ばした。死者は40人に上り、いまでも毎日のように遺体が見つかっている。18日も、午前中に2人の遺体が新たに見つかった。ほとんどの遺体は埋葬されたが、崩れやすいがれきの中にある遺体は収容するのが難しいという。発見現場に行ってみると、半分ミイラ化した遺体が、被災直後の状態のままで取り残されていた。

 クリスピン・アビトンさん(48)は、台風が通過した8日早朝、海辺から遠い別のバランガイにいて、被害を免れたが、サンアントニオ・バランガイには、母とめい、4歳と5歳になる2人の孫が住んでいた。台風が過ぎた8日午後、村を訪れ、悲惨な光景を目にした。母と2人の孫は烈風で吹き飛ばされ、めいだけが何とか逃げ延びたという。後日、母と孫1人が遺体で見つかったが、4歳の孫はまだ行方不明だという。

 町役場近くの多目的ホールには、南カマリネス州からの医療チームが簡易診療所を設置しており、多くの住民が列をなしていた。同州から来た医師のデニス・デフォルマさん(42)は「薬が足りていない。応急処置だけしかできない」と話した。毎日300人から600人の患者がバサイ町各地からやって来るという。

 ネストール・アドナさん(49)の1歳の息子は、4日間も下痢が止まらない。この日、診察を受けるため、息子を連れて午前8時から並んだが、4時間ほど経った正午になっても、まだ診察を受けることができていなかった。「今は町の高台にある教会に避難している。家は全壊してしまった」と嘆いた。

 町職員のカボボイさんによると、南カマリネス州やリサール州など、各州から支援物資が届いている。ただ、51ある同町の全バランガイには行き届かない。米軍や日本の緊急援助隊、海外からの民間支援団体が多数到着しているレイテ州タクロバン市や東サマール州ギワン町とは対照的に、バサイ町には赤十字以外の国際団体の救援隊はまだ入っていないという。

 タクロバン市から直線距離で10キロしか離れていないバサイ町。カボボイさんに、救援の手が届かない理由を聞くと、「恐らくタクロバン市やギワン町と比べて小さな町だからだろう。港や空港も、こぢんまりしている。政府や外国の支援団体にとって、この町は優先順位が低いのだろう。レイテ島が優先されている気がする」と答えた。

 町内の港付近を歩いていると、フィリピン国旗が海岸沿いにはためいていた。近くに住む漁師らが台風後に立てたという。理由を聞くと「アキノ大統領に気付いてほしいからだ」と笑いながら答えた。しかし、アキノ大統領は17日、ギワン町を訪れた後、真っすぐタクロバン市に飛行機で向かった。バサイ町には立ち寄らなかった。(加藤昌平)

気象 災害 (nature)