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戦後60年 慰霊碑巡礼第2部レイテ編

第4回 ・ 慰霊碑にも運、不運

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管理人一家に守られた供養の地蔵像。ビリヤバ町で写す

 レイテ戦史に激戦地として残るリモン峠からカンギポット山(現地名ブガブガ山)にかけては最も日本兵の死者が多く、その数三万人とされる。当然、慰霊碑の数も多い。しかし、慰霊碑の管理となると周辺住民まかせが現状である。

 管理者がおらず、打ち捨てられたような慰霊碑もあれば、住民の生活の場の一部として大切にされている碑も存在する。同じ激戦地に立ちながら対照的な二つの慰霊碑を訪ねた。

 州都タクロバン市から一時間半、リモン峠にほど近い「ブレイクネック・リッジ」に着く。階段を三十五段上がると「埼玉県の碑」と第一師団戦没者供養碑があった。

 ニッパヤシの葉で編まれた三角屋根がコンクリートの支柱四本で支えられている。十六本の卒塔婆に囲まれた地蔵が一体。竹矢来が巡らされ、入口の扉にはチェーンで巻かれた錠前が掛かっている。碑の前には献花があったが、古いものだ。すっかり乾いて茶色になっていた。

 はめ込まれていた銅板の碑文は何者かに剥がされてしまい、碑は台形のコンクリートの塊に変わっていた。碑の周りの石垣も砕かれていて、いかにも無残な姿である。「工事中」の札でも掛かっていれば、救われるのにと思ったほどだ。

 周辺に人影はない。峠道の横はトウモロコシ畑で、谷から風が吹き上げてくる。もっと風が強く吹く峠の頂きには背丈の短い草原にヤシの木が二本。それ以外に視界を遮るものはない。

 案内役のアレックス・サリナスさん(48)は「この地域では熾烈な戦いがあった。日本兵も米兵もここまで戦い抜き、追いつ追われつ峠まで来た時点では銃弾がなくなった。素手での戦いだった」と見てきたように説明した。しかし、米兵は後続部隊がおり、戦闘にも余裕があった。サリナスさんは付け加えた。

 リモン峠を西に進み。レイテでの日本軍最後の拠点となったカンギポット山を下ると、海岸沿いにビリヤバ町シラド・バランガイ(最小行政区)がある。その中のデモスタハエネス・ベロソさん(47)の敷地内に第二十六師団の小さな慰霊碑と地蔵像があった。ベロソさんは「この辺りに日本軍の兵営があったはずだ」と語った。

 第二十六師団戦没者の慰霊碑のすぐ後ろは波打ち際である。地蔵の横にはニッパヤシで屋根をふいた吹き抜け小屋がある。テーブルとイスが置かれ、」管理人のベロソ一家十人がくつろいでいた。

 碑のそばになぜか十字架が置かれ、ベロソさん一家が植えた花や観葉植物が生い茂る。地蔵の周りも緑が豊かだ。

 「最近は訪問客が少なくなった」と、ベロソさんはこぼす。日本の帰還将兵ばかりか遺族すら高齢化しているのが原因だと解説した。

 「たとえ訪問客が一人、二人に減っても、碑は残します。誰も来なくなっても管理は続けるよ」とベロソさん。「もう生活の一部。日本軍の歴史だけじゃない。われわれ一家の歴史でもあるから」と笑った。

(藤岡順吉、続く)

(2005.6.18)

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