▽インドネシアからフィリピンへ―国境を越えて広がる抗議運動と背景
今年(2025年)の8月以降から秋にかけて、インドネシアとネパール、そしてフィリピンにおいて政府への抗議集会やデモなどが相次ぎ、その動きが国境を越えて広がって世界的に注目を集めた。発端となったインドネシアでは、物価高を基軸とした生活苦を背景に、8月には国会議員への高額の住宅手当(最低賃金の10倍近い額)が支給されていたことがSNSで拡散されたのをきっかけに、庶民の怒りが爆発し、プラボォ政権への抗議の動きが一気に広がった。
ネパールでは政府によるSNS遮断が引き金となったが、政治家の腐敗や縁故主義への怒りを背景に大きな暴動となり、最終的には政権の崩壊にまで至った。そしてフィリピンでは洪水対策事業の汚職疑惑(工事の実態のない、いわゆる「ゴーストプロジェクト」疑惑)を背景に、関係する官僚・建設業者、そして政治家への批判が拡大し、フィリピンの政治情勢を揺るがす大きな事態になっていることは周知の通りである。
こうした動きの背景にはいずれも、大多数の庶民層がインフレ物価高による生活苦に呻吟している一方で、一部の腐敗した政治家や高級官僚らと彼らに癒着した業者など富裕層(とその子弟=いわゆる「ネポ・キッズ」)だけが不当な特権を享受し、私腹を肥やしているといった認識が、Z世代の若者層を中心にSNSなどで急速に拡散し、人々の怒りを招いたという構図が共通している。
▽抗議集会で掲げられる「ワンピース」の海賊旗
もちろん、汚職や腐敗政治への抗議運動が大きな政治的インパクトを持つことは、東南アジアでは必ずしも珍しいものではなく、例えば(インドネシアのスハルト政権の崩壊を招いた)アジア経済危機であるとか、フィリピンではマルコス(父)独裁政権を倒した86年2月のいわゆるピープルパワー革命(EDSA革命)などはよく知られている。
しかしながら、今回の各国での一連の抗議運動は、そうした過去の例に比較して注目すべき新たな特徴を備えていることも事実だ。まず一つ目の特徴は、それがSNSやネットなどの新たなメディアを通じて、国境を越えてあっという間に複数の国に波及した点だ。この点に関しては、2010年代半ば以降に中東各地で広がったいわゆる「アラブの春」などと共通する点が多いと言えるかもしれない。
さらに注目すべき第二の特徴は、今回のアジア各地での抗議運動の過程で、若者向けのポピュラーカルチャーに登場するアイコンやキャラクター、とりわけ日本発の人気アニメ「ワンピース」の海賊旗などが抗議のシンボルとして各地の抗議集会などの場で積極的に掲げられたりしているという点だ。もちろんポピュラーカルチャーのキャラクターやアイテムが政治的文脈で抗議や抵抗のシンボルとして独自に流用されること自体は、必ずしも前例がないわけではない。例えばタイでは、近年もハリウッド映画『ハンガー・ゲーム』シリーズに登場する三本指敬礼が現地の軍事独裁に抗うシンボルとして使用されたことは知られている。他ならぬフィリピンでも、1970年代後半には日本のロボット・アニメ「ボルテスⅤ」が人気を博したが、そこでは当時のマルコス(シニア)独裁政権への抗議や批判のニュアンスが深く関係していたとの指摘も多い。
ただし、今回の「ワンピース」の旗(別名ジョリー・ロジャーの海賊旗)の政治的な抗議の場面での掲揚は、そうした前例に比べても、単に特定の国とその政治的文脈(軍事政権下のタイ、マルコス(父)政権下のフィリピン)だけに限定されず、あっという間に複数の国々へ波及したという点で注目に値する。先に述べたようにインドネシアからネパール、フィリピン、そして本稿を執筆中の時点ではフランスなど欧州、さらにペルーやモロッコ、マダガスカルなど南米やアフリカ周辺諸国の一部にまで広がりを見せてきている。
▽なぜ「ワンピース」の旗を振るのか?
では、どうして今回の政治的抗議運動の渦中で「ワンピース」の旗を掲げる参加者がいるのだろうか。これにはまず、今回の運動の参加者らの特性にも関係があるように思われる。すなわち(国にもよるが)今回の一連の抗議活動は、必ずしも特定の既成政党や労組・学生組織などがトップダウン的に主導した組織的運動というよりは、どちらかと言えばSNSなどを通じていわば下から自然発生的に広がっていった側面が強い現象であることとも関係するだろう。とくにフィリピンでは抗議デモや集会の参加者の中でも多様なアジェンダや政治志向をもつ人々がいわば呉越同舟のように参加しており、例えば9月21日にマニラで開催された抗議集会・デモ(いわゆる「1兆ペソ・マーチ」)の場では、一部の集会参加者のあいだで主張するスローガンやシュプレヒコール等の相違・対立から一触即発の状態になるような場面も見られた。
しかしワンピースの旗やキャラクターは、そうした細かい党派的な立場の違いを超えて、多様な政治的立場を有する参加者のあいだでも比較的、理解が容易な包摂的メッセージを伝えうる有効なアイコンとして機能したということを指摘できるだろう。
この点は、「ワンピース」の旗がインドネシアからネパール、そしてフィリピンなど国境を越えて複数の国に容易に広がっていった背景に関係するように思える。すなわち「ワンピース」の旗が国境を越えて流用された背景として、まずはそもそも政府への抗議集会やデモでボリューム層を占める若い世代のあいだで「ワンピース」やルフィはじめとするキャラクターは国を超えて人気のある、いわば汎用性の高いシンボルであることが挙げられる。同作品は全世界での累計発行部数は50億部を突破し、インドネシアやフィリピンなどアジア各地を含め60以上の国や地域で流通しているとされる。このため同作品は国や文化的背景を問わず誰にでも比較的理解可能なアイコンやキャラクターであったことが大きい。
そして第二の要因として、作品(物語)自体のメッセージも、権威や体制(世界政府、海軍など)への反抗や自由の希求、冒険、仲間と団結して敵と戦うというテーマなど、今回の各国における一連の政府等への抗議運動にシンクロしやすい内容であったことも指摘できる。
▽身体性を通じた政治的プロテスト
さらに言えば、ワンピースの海賊旗は視覚的に目立ちやすく、言語的に説明されるまでもなく、身体的次元で暗黙裡のうちに感覚的・直観的にメッセージを伝えうるアイコンとして機能していると言えるだろう。そのため、例えばインドネシアやネパールで起きた現象が、SNSで日常的に世界各地のニュースを視聴するZ世代の若者層のあいだで、やすやすと言語的障壁を越えて、容易にフィリピンはじめ他国へ伝播していくことを可能とした。ワンピースの旗を掲げたり、振る行為は、いわば言語以前の身体性を通じた政治的プロテストとして位置付けることができるだろう。
ちなみに、そもそもの背景として近年、東南アジアを含む海外各国で日本発の(アニメ、マンガ、コスプレ等含む)ポピュラー文化がSNSだとか動画配信プラットフォームを経由して国境を越えて流通し、各国の若者層を中心に高い人気を得ていることも見逃せない。こうして今やフィリピンを含め東南アジアの社会・政治情勢にも影響を及ぼしうることのあるポピュラー文化の動向に引き続き注目していきたい。
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ところ・いくや 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所・教授。専門はフィリピンをはじめとする東南アジアの社会・文化研究など。著書に、『越境―スールー海域世界から』(岩波書店)、共編著に『東南アジアのイスラーム』(東京外国語大学出版)、本稿に関連する論考に「カワイイ文化・オタク文化とその越境―ハローキティから『腐女子』まで」『季刊民族学190』など。