「日刊まにら新聞」ウェブ

1992年にマニラで創刊した「日刊まにら新聞」のウェブサイトです。フィリピン発のニュースを毎日配信しています。

マニラ
32度-24度
両替レート
1万円=P3,835
$100=P5765

12月14日のまにら新聞から

「亡き父の足跡を」 残留日本人2人が故郷へ

[ 2025字|2023.12.14|社会 (society) ]

残留日本人2世の金城マサコさん(80)とアカヒジ・サムエルさん(81)が父の故郷沖縄を訪問へ

涙を浮かべながら戦後の経験を振り返る金城さん(左から2人目)とアカヒジさん(同3人目)=13日、午後3時ごろ、首都圏マニラ市PNLSC事務所で竹下友章撮影

 NPO日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)は13日、現在無国籍状態となっている残留日本人2世の2人が、日本人である父親の故郷の沖縄県を訪ねるに当たり、会見を開いた。今回の一時帰国事業で帰国するのは、戦前にダバオ市で理髪師として働いていた日本人父の子である金城マサコさん(80)=比名ロサ・アンティプエスト=と、パラワン州で漁師をしていた日本人父の子であるアカヒジ(赤比地)・サムエルさん(81)。10月末に行われた沖縄での調査や沖縄ダバオ会の協力・地元メディア報道により、名乗り出た親族らと沖縄で面会する予定だ。

 2人は14日から19日にかけて日本を訪問する。今回の帰国事業は、立憲民主党の塩村あやか参議院議員が8月にダバオを訪問した際、金城さんと面会した事を機に計画。PNLSCの猪俣典弘代表と共にクラウドファンディングを通じ、渡航滞在費などに必要な資金100万円を集めた。

 ▽二重の差別

 金城マサコさんは、1943年9月生まれ。乳児だった戦時中の記憶はない。後に家族から聞いた話によると、戦時中、軍に徴用された父は「すぐ戻ってくる」と言ったきり帰ってこなかった。その後母は、ゲリラに入ったいとこから、マサコさんについて「日本人の子」かと聞かれた。母は「違う」と返事したが、母のいとこは察したのか、「この辺りにはゲリラがいるからどこか遠くへ行くように」と母に告げた。母は乳児のマサコさんをバスケットに入れタオルを被せて隠し、守り通した。栄養不足で母乳が出なかったため、果物などをつぶした流動食をマサコさんに与えた。

 母はマサコさんが3歳のころに清掃夫の比人男性と結婚。ロサというフィリピン名で呼ばれていたマサコさんは、幼少期、義父が実の父だと思っていた。ただ昔から、(義父と母との間に生まれた)下のきょうだいたちの誕生日は祝うのに、自分の誕生日は祝ってもらえないという扱いの差があった。

 「下のきょうだいの誕生日にはレチョン(ブタの丸焼き)やごちそうが出たが、でも自分の誕生日は何もなく、誕生日が過ぎてから父にそう言うと、『キャンディーでも買いなさい』と10センタボくれるだけだった」。一方、学校ではつり目のジェスチャーをされるなど、冷やかしやいじめにあった。

 小学生のころ、おばから実の父が日本人だと告げられる。それを母に確認すると最初は否定したが、再度おばに詳しく話を聞き、母を問いただしたら、観念したのか、ダバオ市で理髪師をしていたという父の話を教えてくれた。マサコさんの息子のアルマンド・アンティプエストさんは、「すぐ戻ってくると言ったきり戻らかなった日本人夫に、祖母は憎しみのような感情を抱いていたのではないか」と推察する。

 学校だけでなく、家庭内にもあった差別を振り返るマサコさん。実の父だと思っていた人物が義父だと知ったとき胸に去来した感情は、うれしさだったという。「きょうだいの中で自分だけ冷遇されている理由が分かってよかった。でも今となっては、義父に対しても、自分をいじめた人たちに対しても恨みはない」。そう言うマサコさんの目には涙が浮かんでいた。

 小学生のころからストリートフードを売って家計を支えていたマサコさんは、小学校卒業後は子守として働いた。結婚した後は、5男1女を育て上げた。80年代から日系人会を通じて国籍回復を申し入れているが、まだ就籍はかなっていない。日本政府に対しては、「帰国を支援してくれて、とても感謝している」と述べた。

 ▽ゲリラに父を殺され

 アカヒジさんの父は戦前パラワン州で漁師をしていた。大戦中に発生した日本軍による捕虜虐殺事件により同島での反日感情は苛烈を極め、父は買い出しの際に抗日ゲリラに銃撃され死亡。日本人の家族だと知られると標的になる恐れがあることから、母親は遺体を引き取り弔うこともかなわなかった。

 大戦中、一家は竹林に隠れ、根菜を掘って飢えをしのいだ。父亡きあと子どもたちを守ってきた母も戦後まもなく病死。その後は異父姉の家に引き取られた。日本人の子であることを隠すため母の姓を名乗っていたが、学校では容姿からいじめに遭った。

 小学校卒業後に漁師として働き始め、60年代に結婚するが、その際も父を比人ということにして登録せざるを得ない社会情勢だった。2014年に日系人支援事業を知り、兄ノボルと面接を受けるが、同年、兄は国籍復帰の夢を果たせぬまま亡くなった。

 会見でアカヒジさんは、めいのオルミドさんの通訳で「私の夢は日本に行き、父の家族、私の親戚に合うことだった。とてもうれしい」「初めて会う親族とお互いを知り合いたい」とかくしゃくとした声で喜びを語った。「なぜ日本に行きたいのか」との質問に対しては「もし父が私を日本に連れて帰っていたら、日本で(日本人として)働けていたのに」と積年の思いをこぼした。(竹下友章)

社会 (society)