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3月22日のまにら新聞から

フィリピン移民120年② 「就籍が最後の望み」 残留二世・松田サクエさん

[ 2466字|2023.3.22|社会 (society) ]

就籍を待つ北ダバオ州の残留日系二世マツダ・サクエさんに話を聞いた

取材に応じるマツダ・サクエ(比名エステルリタ・オペニャ)さん(中央)と長男のセルヒオさん(左)、4女のマリアさん(右)=ダバオ市フィリピン日系人会事務所で竹下友章撮影

 戦前最大で約2万人の日本人が暮らした地・ダバオ。先の大戦の後、父の死亡や強制引き上げで多くの二世が比に残された。外務省が実施している残留日本人調査によると、90年代から2022年までに確認された日本人の子は既に死亡した者も含め3808人だ。

 そのうち、戦前から父により届け出られていた人、日本からの支援で戸籍に後から登載された人、家庭裁判所を通じた就籍手続きで国籍を取得した人は合計1519人。一方で、多くの二世が既に死亡している。日本国籍未取得状態で死亡した二世は1699人。生存が確認されている未就籍の二世数は22年末現在で208人にまで減少した。その平均年齢は80歳を超え、残された時間は少ない。

 そうした二世の多くは幼い頃に父と離れ、迫害を逃れるために一切の証拠書類を破棄、出自を隠し、無国籍のまま暮らしてきた。

 そんな一人が、現在北ダバオ州に住むエステルリタ・ビリャリコ・オペニャ=日本名マツダ・サクエ=さん(89)だ。長男のセルヒオさん(65)らと一緒にダバオ市まで来てくれた彼女は、一目で日本の血を引いていると分かる顔立ちだ。

 サクエさんは1933年4月23日に父マツダ・トメキチ、母フスティナ・ビリャリコの第2子として西ネグロス州バコロド市で生まれた。木材会社インシュラー・ランバー・カンパニー(ILCO)で働いていた父はサクエさんが幼いころ仕事中の転落事故で死亡。

 しばらくは会社から遺族補償金が出ており、そのお金で一家は西ミサミス州に移住。そこで母は、サリサリストア(小規模雑貨店)経営の日本人男性「ハヤシダ・オイサン」と一緒になった。だがハヤシダは高齢のため3年ほどで亡くなる。母はその後、ビダル・ヒンタパンという別の比人男性と一緒になる。

 開戦の直前、日本の船で父方の親戚が訪ねてきて避難させようとしたが、その際日本に連れて行かれることを懸念した母は「泣き、床に転がりながら反対した」。親戚は父の遺骨だけ持ち帰った。

 ▽日本人狩りの中

 戦時中、一家の懸念は抗日ゲリラによる日本人狩りだった。「日本人の血を引いていると比人兵士から殺される。怖かった」とサクエさんは振り返る。

 サクエさんがゲリラから身を隠せたのは、奇しくも抗日ゲリラに参加するおじのおかげだった。おじは日本人の子であることを示す書類、日本の食器類などを破棄し、地下壕に隠れて暮らすよう勧めた。破棄した書類には父と一緒に写っている写真も含まれていた。

 終戦まで、昼は地下壕に隠れ、夜に外に出て食料を用意する生活が続いた。病気になっても治療は受けられず、母の事実婚相手ビダルと兄は病死した。

 戦後は、母の親戚を頼りに西ミサミス州から山道を3日かけて南サンボアンガ州パガディアン市まで移動した。スリッパすらなく、足が血だらけになったが、ココナツの葉で足を包んで歩き続けた。

 ▽5度「結婚」した母

 移住先では父トメキチやハヤシダおじさんが残した財産で農業を始める予定だった。しかし、財産は全て別のおじに取られてしまう。

 一家は貧苦にさいなまれ、カモテ(イモ)、バナナで食をつないだ。そんな中、母は比人男性ウリピオ・バサロと一緒になる。だが、新たな「父」ウリピオには連れ子がおり、何をするにもその子たちが優先だった。

 ウリピオは数年で死亡。母は農業に従事する別の比人男性と一緒になり、南ダバオ州ミラル(現バンサラン町)に移った。サクエさんは「母は生涯で5回結婚した」と言い、子どもたちと共にあっけらかんと笑った。ただ、戦中・戦後の過酷な状況でパートナーを次々失う中、事実婚を重ねることは生きるための手段だったはずだ。

 ▽苦難を勤勉で乗り越え

 戦後は母方の名字ビリャリコと、祖母が付けた名エステルリタを使い、日本人の子であることを隠した。だが、明るい肌、日本人の顔立ちをしているサクエさんを小学校の同級生は「日本人だ、殺せ!殺せ!」と追い立てた。小学校卒業後は進学せず、家計を支えるため家政婦や魚売りをして働いた。

 大きくなったら仕事を求めて母や異母兄弟と共に北ダバオ州タグム町に移住。中華レストランで働いた。20歳を過ぎたころ、農業に従事していたファウスティノ・オペニャさんと結婚。夫は日本人の子と知りながら結婚してくれた。

 家族とともにタバオデオロ州に移り、夫との間には7人もの子宝に恵まれた。「農家にはマンパワーが必要だから」と笑う長男のセルヒオさん。だが生活は決して楽ではなかった。

 セルヒオさんは「農業だけでは暮らしていけないから、母は早く起きて家畜の世話をし、私たちの食事を作り、農作業のほか魚などを売って家計を支えていいた」と振り返る。こうしたサクエさんの背中を見て育った7人の子は全員大学を卒業し、長男は博士号取得。大学の副学長まで経験した。

 サクエさんの母は日本人と結婚していたことをひた隠しにし、ルーツを探すことに反対した。その母が亡くなったのは1990年ごろ。子どもが全員自立した2002年からルーツを探し始めた。両親が結婚したバコロド市で資料を探したが、戦火で紛失していた。

 ▽日本政府に「感謝」

 声も大きく、元気そうに見えるサクエさん。だが既に3回心臓発作を経験し、毎年のように集中治療室に運ばれる。

 中国残留孤児のような政治決断による一括解決を行わない日本政府に何と言いたいか。そう尋ねると、意外にも答えは「日本政府のこれまでの取り組みにただ感謝している」。比国籍を取れるとしたら比国籍を選ぶかと聞いたら「日本国籍」ときっぱり。理由は「父が日本人だから」。

 長男セルヒオさんは言う。「母はその人生で、たくさんの困難、貧困、喪失を味わった。母は『もし日本国籍を持って日本で暮らしたらどんな生活だっただろう』と思い描いて生きてきた。母の命は残り少ない。最後に母の願いを叶えてくれたらありがたい」。(竹下友章、続く)

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