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3月7日のまにら新聞から

フィリピン移民120年① 「汝ハ天皇ト同ジ血ヲ宿ス」 ダバオで果てた一世の思い

[ 1205字|2023.3.7|社会 (society) ]

一世が残した「遺書」には妻子への愛と国への忠義が記されていた

資料館に展示されている橋本茂と妻ロサリオの写真=竹下友章撮影

 日本人が比への移住を始めて今年で120周年を迎える。戦前約2万人の邦人が暮らす一大日本人街だったダバオ市。その中でも特に日本人の多い地区だったカリナンには現在、日本・フィリピン歴史資料館が建っている。

 そこには、マニラ麻(アバカ)産業で栄えた戦前の同市で、太田興業と並び勢力を誇った古川拓殖のマネジャーだったという邦人移住者・橋本茂の遺言がひっそり展示されている。

 太平洋戦争末期の「昭和一九年(1944年)八月二十六日夜」にしたためられたという、妻ロサリオと娘・和枝に残した最後の手紙にはこう書かれている。

 (妻ロサリオへ)「汝(なんじ)ノ夫・橋本茂ハ天皇陛下ニ一命を捧ゲ以テ、皇恩ノ萬分(まんぶん)ノ一ニ報イタレバ汝ニ此(こ)ノ事ヲ誇リトナシ己ノ言動ニ汝ノ夫ノ名誉ヲ汚スガ如キコトアルベカラズ」

 「汝ノ一生ニ対スル余ノ希望ハ和枝ヲ日本人トシテ育テ名誉アル父ノ子トシテ誇ヲ以テ育テヨ」

 (娘・和枝へ) 「汝若(も)シ一身上ノ事デ思案ニオヨバザル事アラバ、比人ニ相談セズ古川拓殖又ハ日本帝國(こく)政府ニ懇願シ援助ヲ受ケヨ」

 「汝ハ日本人ナリ 故ニ汝ノ祖先ハ天照大神ニシテ主家ハ皇室ナリ 汝ハ天皇ノ御カラダに流レル血ト同ジ一滴ノ血ヲ汝ノ体ノ中ニ宿ス」

 「天皇ノ國(くに)大日本帝國ハ即チ汝等ノ父ノ國ニシテ同時ニ汝等ノ保護者タル事疑ヒナシ」

 日本軍に徴用された橋本は、サマール島での軍事演習中に米軍による爆撃に遭い死亡したという。

 「天皇ノ御カラダに流レル血」と同じ血が流れる「陛下の赤子」であるわが子の命運を祖国に託し、「皇恩ノ萬分ノ一」に報いるため文字通り一命を捧げた橋本。妻への最後の言葉は「余ニ対スル汝ノ愛ノ唯一無二ナル事ヲ信ジ感謝ス」という愛への感謝、娘へは「汝ハ意義アル一生ヲ送ルタメ教育ハ出来得ルダケ高度ニ受ケヨ」という親心で締めくくられている。

 同様に「聖戦」の戦禍の中、家族を残し、水漬(みづ)く屍(かばね)、草生(む)す屍になり果てた父たちは、橋本ひとりだけではなかったはずだ。

 それに対し日本政府は、ポツダム宣言を受諾した1945年8月14日、大東亜大臣東郷茂徳による「三ヶ国宣言受諾ニ関スル在外現地機関ニ対スル訓令」を発令。「居留民ハ出来ウル限リ定着ノ方針ヲ執ル」と宣言し、比人の報復や抗日ゲリラによる日本人狩りの渦中に一世の家族らを現地に留め置く方針を決めた。

 残された二世らは戦後、吹き荒れる反日感情にさらされ、出自を隠し、山間部など僻地(へきち)に逃れたものも多い。

 それから78年の時が流れようとしている。異国の地で果て、あるいは日本への強制送還と戦後の混乱により二度とわが子を見ることが叶わなかった父たちの思いは果たされたのか。彼らの子孫はその後どうなったのか。かつての日本人街・ダバオ市を訪ねた。(敬称略・竹下友章、続く)

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