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2月20日のまにら新聞から

残された時間は少ない 比日系2世の国籍回復目指し聞き取り調査 ダバオ総領事館 PNLSC

[ 1202字|2023.2.20|社会 (society) ]

ダバオ日本国総領事館とフィリピン日系人リーガルサポートセンターはこのほど、日系フィリピン人2世の計18名に、国籍回復を目的とした聞き取り調査を実施した

ローサ・カナシロさん(左奥)にインタビューする石川義久総領事(右奥)、猪俣典弘氏(右手前)、通訳兼サポートのヘレン・エスコビリャ氏=17日、フィリピン日系人会事務所で(中野渡瑞葵撮影)

 ダバオ日本国総領事館とフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)はこのほど、日系フィリピン人2世の計18名に、国籍回復を目的とした聞き取り調査を実施した。同調査はサンボアンガ市で1月30日〜2月1日、ダバオ市および近隣州で2月13〜17日にかけて行なわれ、いずれも総領事館の石川義久総領事やPNLSCの猪俣典弘代表理事らが参加した。

 最終日の17日には、ダバオ市の日系人会においてナティヴィダド・モリタさん(82)、ローサ・カナシロさん(79)、フリオ・オナリさん(85)、フェリペ・バサキさん(92)のライフストーリーを聞き取り、記録がなされた。「日本にいる兄弟に会いたい」と訴えたモリタさんには父親の記憶はほとんどない。

 モリタさんの母親の話によると、モリタさんがまだ乳児だった第2次世界大戦中、父親は右足の怪我が原因で歩けなくなり日本に帰され、以来、連絡が途絶えた。写真はあったが、戦後に母親が燃やしたという。当時のフィリピンでは日本人の子であることは命の危険に直結した。また、バサキさんの同行者の3世は「お父さんのために助けてほしい」と訴えた。1世である父親の身元は未だ判明していない。

 猪俣代表理事は就籍にあたっては「父親が日本人であること、両親の結婚証明や父親と自身の父子関係の証明などが必要となる。約80年以上前に渡比し、戦中に生き別れるまたは死別した日本人の父親の身元を探す困難は想像を絶する。過去にテレビや新聞を通じて親族が見つかったケースも何件かあり、メディアの力を借りての日本における親族捜しも一つの方法」と語った。

 戦前の日本人移民は大半が男性で、その多くがフィリピン人女性と結婚し、家族を持った。その間に生まれた2世は、日本人の父親と戦中に死別したり、戦後の強制送還で生き別れになったりした。また、戦火で両親の婚姻届が消失し、対日感情の悪化から身分を隠すため関連書類を自ら破棄せざるを得なかったなど、戦後も2世の多くが父親が日本人であることを証明できず、無国籍状態に置かれてきた。

 かつて法的に父系血統主義をとっていた比では、母親の国籍が子には与えられなかった。従って「無国籍」状態に置かれた2世は戦後、十分な教育や医療も受けられず、極貧の生活を余儀なくされた。現在そうした状態で高齢化を迎えた2世がまだ数百名残留しているといわれる。

 こうした2世の就籍が実現することで、日系人の3世・4世が日本に定住する権利を得ることも可能になる。精神的・経済的にも2世の就籍が家族の将来に重大な恩恵を及ぼす。2世は平均80代と高齢。就籍まであと一歩のところで亡くなるケースもあり、本人や家族、両国関係者にとっても残された時間は少ない。(中野渡瑞葵=ダバオ、東京外国語大学生で現在ダバオ市のピスタシア社でインターン中。PNLSCでのインターン経験も有り)

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