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12月13日のまにら新聞から

ラセリス博士講演(中) 「当局が来ること想像し怯えた」

[ 2399字|2022.12.13|社会 (society) ]

戒厳令期とアキノ政変、そして政変後の比社会を振り返る

 フィリピン研究の第一人者マリー・ラセリス博士(90)=アテネオ大=の「第5回フィリピン・スタディーズ・コンファレンス・イン・ジャンパン」(PSCJ)での基調講演中編となる今回は、戒厳令期とそれを打ち破ったアキノ政変(エドサ革命)、そして政変後の比社会の光と影を説明した部分を紹介する。(竹下友章)

 ▽「貧困はない」

 1972年9月、戒厳令が布告された。国家の実像を明らかにするための研究活動が、研究者自らの自己検閲で、あるいは軍の監視によって抑圧されることになった。数百人もの知識人、政治家、ジャーナリストが拘束される中、「独裁者」の意に沿わない研究結果の発表は困難となった。

 政府官庁は特定の研究テーマに神経質になり、陰に陽に規制した。国家経済開発庁(NEDA)は、アテネオ大フィリピン文化研究所(IPC)が国連から貧困に関する研究費を受け取っていることを快く思っておらず、同庁担当者は「この国に大した貧困はない」と言い放った。

 NEDAは、国連アジア太平洋経済社会委員会がIPCに依頼した土地なし農業労働者調査を不採用とした。「研究が左翼に利用されることを政府が恐れたからでは」と噂された。

 研究者の間では、教室で、講義で、電話で、自分が発した言葉が「当局に密告されるような内容に聞こえるだろうか」と考えながら話す「二重思考」の習慣が身についた。深夜2時に家の前に当局の車が止まる音の想像が頭にまとわりつき、怯(おび)えることもあった。

 ▽「聖職者ファシスト」

 マルコス権威主義的体制はフィリピン大(UP)とアテネオ大の関係にも影響を与えた。

 両大学とも概ね独裁政治に反対していたが、カトリック系のアテネオ大では、ラディカル左派は「社会民主党」という組織に所属していた。かれらはマルクス・毛沢東思想を認めつつも、暴力による革命は放棄していた。マルコス政権も、教会と関係のある同組織が共産主義者である可能性はないと考え攻撃を控えていた。

 これに対し、UPで支配的だった「民族民主戦線」はアテネオ大の学生や教員、修道士に対し「聖職者ファシスト」とレッテルを貼った。マルコス政権にとって国民民主戦線は「共産主義者」であり、実力による鎮圧の対象となった。

 80年代に入って状況が変わる。左派は身内のスパイ疑惑者の粛清に忙殺されていたが、一方で、NGOは地域に根ざす地下組織を拡大、政権への抵抗の輪は着実に広がっていた。経済状況の悪化の懸念から民間団体までもデモに参加し、マルコスの取り巻き企業は不買運動に直面した。学者たちも、慎重に言葉を選んだものから大胆な論文まで様々な研究成果を報告しはじめた。

 1983年のベニグノ・アキノ暗殺と数百万の人々の葬儀への参列は、マルコス政権の終わりの始まりだった。86年の臨時大統領選挙が政権の棺桶に打ち込まれた最後の釘となり、エンリレ国防相とラモス国軍参謀次長が離反、シン枢機卿は市民に反乱軍を守るよう呼びかけた。

 ▽花開く民主市民社会

 マルコスが去ったあと、コリー・アキノは民主主義社会の回復に取り組み、多くのNGOリーダーが政府と連携して改革にあたった。

 包括的農地改革計画、地方自治法、女性の権利に関するいくつかの法が制定された。また、コルディリエラ行政区、ムスリム・ミンダナオ自治地域の設置が決まり、先住民に先祖代々の土地の権利が認められた。続くラモス政権では先住民権利法が制定された。

 新しい民主主義の空間では、市民社会が花開いた。NGOらは国際機関から支援を受けて繁栄し、メディアは再び報道の自由を取り戻した。学術研究も弾圧を恐れず政府への批判的機能を果たせるようになったが、研究者は政権批判よりも草の根のニーズを捉えて実証研究を行い、政策提言することに力を注いだ。

 その後の政権では民主的空間を拡大したり縮小したりしたが、市民社会組織と社会科学者は民主社会の境界を拡大することに積極的であり続けた。

 ノイノイ・アキノ大統領は、開かれた民主主義のノスタルジーを取り戻した。複数のNGOのリーダーが政権入りし、官僚主義を一般国民のニーズに対応するよう転換させることに心血を注いだ。

 都市貧困グループの要求が認められ、代替居住地の建設に人々が参画できるようになった。参加型のプロセスを重視するノイノイ政権の方針は、研究者たちに研究方法の再考も促した。開発NGOや地域コミュニティを巻き込み、地域社会の課題解決に取り組む「アクションリサーチ」が標準的になっていった。

 ▽エドサ革命への失望

 貧困削減や貧困層へのサービス向上に関するノイノイ政権の成果は注目に値する。一方で、エドサ革命(アキノ政変)以降、エリート支配に対する疎外感も増大した。

 社会学者マルコ・ガリードは、21世紀に入って社会のあらゆるレベルでエドサ革命の約束が果たされなかったことへの深い失望があることを明らかにしている。

 特に貧困層にとっては、快適な生活を送る富裕層に比べ、自分たちの生活向上に対する期待は満たされないか、余りにも遅すぎた。それを経済学者はジニ係数を用い、所得格差の拡大として描いた。

 確かに都市スラム居住者には、安全な再住居地と居住権が与えられた。しかし、移住先の地域では雇用がなく、水道や電気、通信インフラも未発達なことが多かった。多くは都市に戻るしかない。そうした人には「プロ不法占拠者」のレッテルが待っていた。

 先住民たちは政府からの放置と貧苦に苦しみ、または軍と反政府勢力との間で戦火に巻き込まれ、有力者によって先祖代々の土地を追われた。

 こうした状況にうんざりしていた人々が現状打開の希望を託した相手こそ、ロドリゴ・ドゥテルテ大統領だった。(続く)

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