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12月3日のまにら新聞から

「ぜったいに辞めない」 マニラ日本人学校で空手教室

[ 1533字|2022.12.3|社会 (society) ]

マニラ日本人学校で空手世界王者で、比代表でもある月井隼南さんが演武を披露

マニラ日本人学校で中学部の生徒に空手を教える比代表で世界王者の月井隼南さん=2日午前、首都圏タギッグ市で岡田薫撮影

 首都圏タギッグ市のマニラ日本人学校(MJS)で2日、空手50キロ級の世界王者で、フィリピン代表でもある月井隼南さんが、全校児童・生徒を前に、空手と共に培ってきた人生経験について語ったり、実際の演武を披露し、中学部向けには実技指導を行ったりした。

 白い道着に黒帯姿の月井さんのMJS訪問は、2017年7月以来で、児童・生徒は目を輝かせ、体育館には元気な気合いの声がこだました。

 冒頭で塚本秀二教頭は、首都圏パサイ市で、空手師範の日本人の父親とフィリピン人の母親との間に生まれた月井さんの生い立ちを紹介。2019年東南アジア競技大会の女子空手50キロ級での金メダル、米国バーミングハムにおける2022年ワールドゲームズでの世界チャンピオン達成といった快挙にも触れ、「現在はフィリピン空手界を背負うリーダーとして、日々努力を重ねている」とも説明した。

 続いて月井さんは7歳の小学1年時、父の影響から「気が付いたら姉と弟と一緒に自分も空手を始めていた」とし、上手だった2人が飽きて空手を離れた一方、負けん気が強かった月井さんだけが空手を続けてきたことを振り返った。

 月井さんは小中高と日本で過ごし、その間5度の全国優勝を果たした。しかし、高校卒業時から前十字靭帯損傷というスポーツ選手にとって1度でも致命的な膝の大けがを4度もするという大きな試練に苛まれた。以降、再び全国優勝という形で、大舞台への復帰が果たせたのは25歳になってからだった。

 ▽「もう一度日本一に」

 月井さんは「それまでのみんなの前を走っているような気持ちから、急なけがで手術をして、勝てなくなってしまい、がんばっているみんなに追い越され、後ろの方からそれを見ているような気持ちが6年間続いた」と当時の苦しさを語った。「もしこのまま空手を辞めてしまえば、空手と向き合うこと、空手をしている人や毎日着ていた道着の白を見ることすら嫌になるかもしれない」との気持ちから「もう一度日本一になるまで、ぜったいに辞めない」と自身に約束を課してきたという。

 6年後に雪辱を果たせたことで「もうここで辞めてもいいかなと思ったころ、今度は空手が日本のオリンピック種目に加えられる話が出てきた。もう一度新しい目標に向けてがんばろうかな」との思いで、幼少期に離れた比へ2017年、単身で渡った。

 空手強豪国に比べ、あらゆるサポートや資金の面で乏しい比代表チームの一員として、比の国旗をまとった月井さんは3年間、1人で25カ国の空手強豪国を回る合宿練習を重ねてきた。

 世界ランキング2位になった2021年、それでも東京五輪出場の夢は果たせなかった。ただ、歴史がまだ浅い比の空手チームの「未来を自分が引っ張るんだという思い」を胸に、技術・認知度の向上を目標に据えて世界中の大会に挑んでいる。

 ▽憧れの選手に会えた

 中学部3年のテネデーロ淳さんは、MJSで週に1度、放課後の空手クラブに参加している。小学1年時から始め、小6時に緑帯を取得した。

 コロナ禍での2年間のクラブ中断を経て、同クラブには小学部から中学部まで計20人程が所属しているという。月井さんのパフォーマンスに「型のフォームがきれいで、速度も感動的だった」と驚きを口にした。

 同じ空手クラブ所属の小学部5年、古屋凛花さんはまだ白帯だが、「初めて月井選手と会えてびっくりしている」と憧れの選手に会えた喜びを興奮気味に語っていた。

 講演後、月井さんは中学部の生徒に突きや蹴りの練習、腕をつかまれた場合の逃れ方といった護身術としての空手を実践した。生徒に加え、教員も一緒になって空手に汗を流していた。(岡田薫)

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