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11月15日のまにら新聞から

マゼランから比を読み解く  「世界一周500年目の真実」 ジャーナリスト・大野拓司氏

[ 3794字|2023.11.15|社会 (society) ]

マゼラン船団の到達を舞台回しに、16世紀から20世紀初頭にかけてのフィリピンの社会のありさまと、国の成り立ちを独自の視点で読み解く「マゼラン船団 世界一周500年目の真実 大航海時代とアジア」を上梓したジャーナリストの大野拓司氏に、比国民・国家の成立について話を聞いた。

 山岳地帯のお守りから遠くを見る大野拓司氏。映画「500年の航海」(原題はBalikbayan)で、マゼランの「奴隷のエンリケ」に扮(ふん)した映画監督兼役者のキドラッド・タヒミクがとったポーズを真似る=本人提供

 マゼラン船団の到達を舞台回しに、16世紀から20世紀初頭にかけてのフィリピンの社会のありさまと、国の成り立ちを独自の視点で読み解く――。そんな意欲作「マゼラン船団 世界一周500年目の真実 大航海時代とアジア」が今月、東京の作品社から出版された。このテーマに挑んだのは、戒厳令期に比で学び、朝日新聞マニラ支局長を経験、フィリピン入門書の決定版「フィリピンを知るための64章」の共編著者としても知られるジャーナリストの大野拓司氏だ。

 マゼランの比到達500周年を迎えた2021年、数々の記念行事が催される一方で、ドゥテルテ前大統領は「植民者が宗教を使って懐柔し、比の英雄を殺し始めた日をなぜ祝うのか」と問題を提起。このひとことが象徴するように、マゼラン到達は比史の画期を成し、植民地支配への第一歩として、比ナショナリズムを刺激する。マゼラン到達時の諸島はどのようなもので、その来航はこの国の歴史にどう影響を与え、近現代にどうつながっているのか。この大きな問いに迫った大野氏に話を聞いた。(聞き手は竹下友章)

 ―執筆に当たって重視したことは。

 比に仕事で駐在したり、何度も旅行に訪れたりする人でも、フィリピンの成り立ちなどについてなんとなくわかっていても、どのような経過をたどって今日の姿になったのかは知らないといった声をよく聞く。今日、日本のフィリピン研究は飛躍的に深まったが、一方で対象が細分化したりニッチ化したりする傾向があるようだ。ざっくりではあっても、ダイナミックに、巨視的に解説するものが少ない、と私には思える。比の歴史を巨視的に捉えるとともに、史資料に基づいて、あまり知られていない事実を掘り起こし、それを一般読者にも読みやすいよう「物語」風に書いた。

 私は新聞記者出身で、現在もささやかながらジャーナリストとして活動をしているから、今日のフィリピン社会の理解にも役立つよう随所に過去とつながる現代の「ニュース」も取り込むよう心掛けた。「ジパング=フィリピン説」などの興味深い学説の紹介や、マゼラン来航以前にさかのぼる比日関係・比中関係にも章を割いた。

 ―参照した史資料は。

 マゼラン船団に同行したピガフェッタによる航海記録「初の世界一周についての報告」、スペイン宮廷書記官トランシルヴァーノが船団の生還者から話を聞いてまとめた「モルッカ諸島遠征調書」、航海長アルボの「航海日誌」、16世紀末に比に派遣されたスペインの行政官モルガによる「フィリピン諸島誌」といった当時の一次史料を参考にした。マゼラン到達前の風俗については、南宋期の中国泉州の役人・趙汝适による「諸蕃志」なども参照した。

 今回の執筆で特筆しておきたいことがある。ピガフェッタやトランシルヴァーノ、モルガなどは日本語に翻訳されているが、原文は大きな図書館や研究所に所蔵され、一般の人には手が届きにくかった。それが、21世紀になって「プロジェクト・グーテンベルク」という組織を運営する米国のNPOが英訳し、オンラインで公開している。だれでも無料で自由にアクセスできる。著作権が切れた世界的な文学や歴史的文書など、今年初頭時点で6万点余りを数える。フィリピン史研究の基本文献「フィリピン諸島誌集成1493〜1898年」も全55巻が電子書籍として公開されている。米の歴史家ブレアと書誌学者ロバートソンが中心になって編纂(へんさん)し、1900年代初頭に限定出版された重要な史資料だ。

 デジタル化されていることを知らない日本の研究者もいると聞き、ちょっと意外だった。私は今回、大いに活用させてもらった。

 ―「フィリピン」の領域はどう決まった。

 1521年のマゼラン到達後、1543年にビリャロボス遠征隊が交易拠点を作る目的で来航した。その際、サマール島やレイテ島を、フェリペ2世(当時のスペイン皇太子)にちなんで「ラス・イスラス・フェリペナス(フェリペの島々)」と名付けたのが始まり。フィリピン諸島の範囲は時代によって変わり、西はボルネオ島やスラウェシ島、東はマーシャル諸島まで含んでいるときもある。大きく言うと「スペイン領東インド」を指す言葉だった。だが最終的に実際に統治できたのはルソン、ビサヤとミンダナオの一部だけ。その支配領域が現在の国家の領域に継承されている。ミンダナオ島は米国時代に組み入れられた。

 マゼラン船団から数えて第6次のレガスピ隊の分遣隊が1565年に比からスペインの副王領メキシコに帰還する航路を発見する。レガスピは当初セブに足場を築いた。メキシコとの往復路ができたことが、比への支配を決定的にした。

 スペインはルソン島やビサヤ諸島の主に低地でカトリックを布教し、バラバラだった一帯を、カトリックを横串にしてつなげ、スペイン印の屋根を葺き、長屋を建てた。それが今日のフィリピンの原型だ。しかし、横串をはねつけ、長屋入りを拒んだ人たちがいた。ミンダナオ島のイスラム教徒やルソン島など山岳地帯の伝統信仰を守った人たちだ。キリスト教、イスラム、アニミズム。フィリピンには、大きく三つの宗教圏が残ったのだ。

 比に来た「スペイン人」は、実はほとんどメキシコを経由して入ってきている。メキシコでの混血者も含め、フィリピンにくれば「スペイン人」。だがそのスペイン人も実は少なかった。植民地化当初の17世紀で2000〜2500人程度。19世紀に入っても5000人くらいだ。増え出すのはスペイン統治末期の19世紀後半だ。

 スペイン人たちは若い軍人、聖職者、行政官などであり、一部を除いてほとんど独身男性。そうした男たちは、当時泉州から比に進出していた中国人や、比人と結婚したり、私生児をもうけたりする。そうしてフィリピン生まれのスペイン人の子ができる。そうした人たちは、諸島生まれを意味する「インスラール」、または「フィリピーノ」と呼ばれた。一方で、元からいた住民は「インディオ」と呼ばれた。メキシコ先住民労務者も入ってきたが、彼らもマニラのスペイン人社会では、非白人であるため下に見られていた。

 ―どのように国民全体が「フィリピーノ」になったか。

 フィリピーノたちは、貿易を通じ経済力をつけた中国人や、スペイン統治に協力することで、統治の「中間管理職」として地方的権力を保持したダトゥ(首長)層と婚姻を通じて結びつき、存在感を高めていく。17世紀から18世紀にかけて、英国やオランダといった新興海洋国家が世界貿易のおいしいところを取っていくようになる。それに伴いガレオン船を用いた中継貿易が衰退すると、従来の重商主義が修正され比で砂糖やタバコなど商品作物のプランテーション開発がされ始める。そのとき初めて比で土地の価値が見直される。それから土地を集積し、地主層を形成していったのもフィリピーノたちだ。

 19世紀には住民に名字が与えられ、住民票が作成され始めるとともに、国内教育が始まる。そうした中で、地主層から出てきたのが、中国系とスペイン系の血を引くホセ・リサール。リサールは欧州留学を通じ、世界で最も偉大な国だと思っていたスペインが、欧州諸国では実は下に見られていることも知ったようだ。彼はスペイン人の苛烈な支配を告発するとともに、フィリピーノにもスペイン人と対等の権利を要求した。だが、この頃の一般の住民(インディオ)にはまだフィリピーノ・アイデンティティーは浸透しきっていなかったはずだ。

 リサールに影響を受けながら、「リサールはまだ甘い、スペイン人を追い出さねばならない」と抜本的な革命運動を始めたのが、無産階級出身のボニファシオ。ボニファシオを抹殺し、独立運動の主導権を握ったアギナルドは旧ダトゥ層出身。「スペインは追い出したいけど自分たちの地位は守りたい」と革命を揺り戻した。フィリピン革命は、リーダーの出身階層によってこのような3段階のプロセスを経た。

 元々は「タガログ」、「イロカノ」などのエスニックレベルでの帰属意識はあっても、フィリピーノ・アイデンティティーを持つものは一部だけだった。それが、スペインへの抵抗運動、スペインからの独立戦争、対米戦争、対日戦争など闘争・戦争を通じてフィリピーノ意識が鍛えられ、拡大していく。支配者・侵略者に対する抗戦が「敵」に対する「われわれ」の意識を育てる。そうする中で、世紀をまたいで「フィリピーノ」としてのアイデンティティーが形成されていった。

 こうした比史の大きなうねりを、欧州の「地理上の発見」史観に対抗するアジアの視点から書き上げようと取り組んだのが本書だ。

 ◇

 おおの・たくし 1948年生まれ。慶応義塾大卒業後、1970年から7年間フィリピン大大学院で学ぶ。朝日新聞のマニラ、ナイロビ、シドニー各支局長、「朝日ジャーナル」旧ソ連東欧移動特派員、「アエラ」副編集長などを経験。著書に「現代アジアの統治と共生」(共著、慶應義塾大学出版会)、「アジアの近代化における伝統的価値意識の研究」(共著、山喜房仏書林)、「実録イメルダ・マルコス」(訳書、めこん)、「南シナ海紛争」(訳書、電子書籍)など多数。日刊まにら新聞の客員編集員も務めた。

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