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1月8日のまにら新聞から

台風オデット被災地は今④ 復興への道のりまだ遠く セブでは新年祝う人々も

[ 2167字|2022.1.8|気象・災害 ]

新年直前から爆竹を鳴らす人の姿も見られ、セブの人々の心が台風被災で砕かれてしまったわけではないことを実感

(右)セブ日本人会の松田和人会長=2日午前、ビサヤ地方セブ市で岡田薫撮影。(左)電力が復旧していない自宅で暮らす蝶谷正明さん。台風後に足を骨折し、歩行にはまだ困難が伴う=2日午前、ビサヤ地方セブ市で岡田薫撮影

 死者が407人、行方不明者78人が判明している台風22号(比名オデット)の被災地。セブ市では近年稀に見る甚大な被害となり、現在も多くの地区や世帯で電力や水、インターネットもない状況が続いている。台風が直撃した際、自宅の鍵を開けたままだったセブの邦人宅では、強風でドアが開き、屋根ごと吹き飛ばされたとの情報もあり、威力の凄まじさを物語っている。

 市中心部では大晦日や元旦に電気が復旧している通りもあったが、灯りのない通りが圧倒的に多く、昼間でも発電機が店の前で轟音を立てていた。夕方には手持ちの電灯やロウソクを売る露店も出ていた。夜には各家庭で揺れるロウソクの炎が目についた。大概の店が午後6時には店じまいし、それ以降も開けている「砂漠の中のオアシス」のように電気が灯ったレストランには、人々が列を作っていた。

 新年直前に始まった爆竹音は、午前0時前後の約30分ほど続いた。被災したにもかかわらず、主に低所得者の世帯が密集して暮らす一角が賑やかだった。市中心からやや遠方では、打ち上げ花火も数カ所から一斉に上がり、セブの人々の心が台風で砕かれたわけではないことを実感した。

 セブ日本人会の事務所は窓ガラスが割れ、天井も一部損傷するなど、使用できない状況が続く。同会のメンバー自らが被災し、困難な状況下にある中、主にセブを中心とする比日の企業やNGO団体など多くの協力を得て、いち早く「台風22号(オデット)セブ義援金プロジェクト」を発足させた。民間の人々にも広く寄付金を募り、12月30日までに225万円が集った。その一部でまず米5トン、缶詰5千個といった食糧や水などの支援物資を購入し、各協力団体の手を借りて市内の貧困地区やマクタン島、遠くボホール島まで送っている。

▽年末年始も休みなく

 セブ日本人会の松田和人会長は、自宅に未だ電気や水が戻らず、車の中で携帯電話を充電する生活を送っている。ネット環境も整わず、仕事に集中することもままならない。台風直後、「現金が必要となりATMに8時間、車のガソリンに3時間並んだ」という松田会長。その合間にも、連絡が取れない邦人を回って安否確認に努めた。年末年始も始まったばかりの義援金プロジェクトの各協力団体との事前調整に加え、実際の支援にも参加し休みのない毎日を過ごしている。

 松田会長は新型コロナ禍で、比の医療状況のひっ迫や先行きの見えない不安などから、妻を日本に帰国させた。以来1年以上、犬との単身生活を続けている。「外で人と会っている時はいいが、家に帰ると水や電気、インターネットもない。こうした生活が長くなると気持ちも沈みがちになる」とつらい現状を明かした。また「トイレを流すため、大量の水が必要だ。節水で手を洗う機会も減ってしまう。これが衛生環境に響いてしまう」と悪循環を嘆いた。今回台風オデットに見舞われたシャルガオ島やボホール島、セブ州など被災地では、急性胃腸炎や下痢の症状を訴える患者が増えているとのニュースも聞く。

 一方、市内マルコポーロホテルの一角に建ち「平和のシンボル」として、戦没者慰霊祭も執り行われてきたセブ観音像は、周辺の木がなぎ倒される中、無事だった。盗難防止のため昨年募金によって購入した周囲の監視カメラ4台も飛ばされることはなかった。しかし、松田会長によると、日本人会が管理し、現在15人ほどが眠る日本人墓地では、基礎部分を残して支柱などが飛ばされる被害が出ている。

▽オデット後に骨折も

 セブ市の山間部に25ヘクタールにわたって700〜800戸が点在するビレッジ「マリア・ルイサ」に住んで7年、セブに来て15年になる蝶谷正明さん(66)は、台風通過の夜は眠れずに過ごした。「風の音が激しく、隣の家の屋根が飛んだ音もした。木がどんどん倒れて、遠くまで見通せるようになってしまった。電気も水も止まった。室内にも雨水が数センチ溜まった」と台風来襲時の状況を振り返った。翌朝、窓にはびっしり葉が張り付いていたという。

 蝶谷さん宅に通じる急な坂の脇に倒木が重なっていた。「最初の5日間は、倒木で道が塞がったため、自宅から移動できなかった」。蝶谷さんは外の様子を見に行った12月20日にその坂で滑って転び、左の大腿骨を骨折した。自宅で痛みに耐えていたが、22日に救急車で市内の病院の緊急治療室へ搬送された。診断を受けて初めて骨折を知った。当初は台風のけが人で病院は混雑しており、車椅子のまま5、6時間も待ったという。

 台風オデットはフィリピン接近と共に勢力を拡大し、速度を落としていった。そのため当初、これほどの被害を想定できず、大半の人が飲み水を蓄えていなかった。マリア・ルイサの管理人も井戸水を汲み上げるための発電機の準備に戸惑ったが、地下水を使った独自の水道は18日には回復した。飲み水は管理人が届けてくれたという。蝶谷さんは電気やインターネット通信がない中、自宅で新年を迎えた。電気は6日朝にようやく復旧したが、周辺ではまだ発電機の音が聞こえており、「全戸の復旧にはこぎ着けていない様子」だという。

 「電気の復旧後に、本来の復興がようやく始まる」という言葉は各所で耳にした。復興への道はまだ遠い。(岡田薫)

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