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10月23日のまにら新聞から

「解放」それは吉か凶か レイテ上陸76周年

[ 754字|2020.10.23|社会 (society)|新聞論調 ]

 10月20日は米軍レイテ島上陸76周年記念日。「フィリピンの人々よ、私は戻ってきた」とマッカーサーが宣言した日だ。比人の多くは意識していないだろう。

 時はさかのぼる。フランクリン・ルーズベルト米大統領にニミッツ提督は台湾攻撃を進言した。マッカーサーは比奪還を米国の重要責務であるとしたのに対し、マーシャル将軍は比を回り道することは比を見捨てることではないと言った。だが、ルーズベルトは結局、フィリピンを選んだ。それは軍事戦略上の理由と共に1944年が大統領選挙の年だったからだと考えられている。

 フィリピン解放戦はレイテ島上陸で始まったが、狙いは首都マニラの奪還だった。45年1月、リンガエン湾に上陸した米軍はマニラに向かった。まずサントトマス大学で連合国の捕虜多数が解放された。マニラの戦いは始まったところだったが、2月6日にマッカーサーは「マニラが陥落した」と宣言した。日本軍の配置を米諜報機関が見誤ったのだ。マニラはそれ以降、第2次世界大戦中、連合国側でワルシャワに次ぐと言われる惨劇に見舞われることになる。

 かつて東洋の真珠と呼ばれたマニラは、日本軍による破壊と米軍の爆撃によって内と外から破壊された。フィリピン人歴史家アルフォンソ・アルイットは「剣と火で」の中で「マッカーサーには岩淵三次司令官と同じほど、マニラの残酷な結末に対して責任がある」と書いている。

 マニラの戦いだけで10万人余りの比人が命を落とした。ルーズベルト大統領が、比ではなく台湾を選んでいたら、比に、これほどまでの被害はなかっただろう。ある米高官はこのことを「日本降伏のあとマッカーサーは、約束を果たした英雄として比に戻ってくることができたのに」と表現している。(19日、インクワイアラー、ラモン・ファロラン)

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