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8月6日のまにら新聞から

謝罪はいまだなされず 米国による鐘の盗難

[ 753字|2017.8.6|社会 (society)|新聞論調 ]

 ドゥテルテ大統領は施政方針演説で、ビサヤ地方東サマール州バラギガ町の教会の鐘の返還を求めた。鐘は比米戦争中の1901〜1902年に米軍により戦利品として持ち帰られたもので、違法薬物・犯罪撲滅政策におけるフィリピン国軍の人権侵害に対する米議会の調査に対して、大統領が返事をしたものだ。

 大統領は自分の言葉でこう述べた。「権利侵害の話をするな。おまえらはサマール島でワライ族5万人とスルー州で数百人を殺した上、虐殺を認めることも謝罪することもしないどころか、盗んだ鐘を返すことを拒んでいる。人権侵害で比政府の調査をしたいのなら、なぜ米国の人権侵害の記録を調査しないのか」と。

 歴史が示す大量虐殺は1901年の9月28日に起きた。米国陸軍のスミス将軍はサマール島を「荒野にしろ」と命じ、武器を持つことができる10歳以上の比人男子が殺された。虐殺は、住民が米軍第9歩兵部隊C歩兵中隊の兵士48人を殺害し、22人を負傷させた後に起きたものだ。その戦いでも住民20〜25人が死亡している。焼き尽くされたカトリック教会から、米軍は三つの鐘を戦利品として持って帰った。スミス将軍とその部下たちは違法な報復活動により軍法会議にかけられ、海兵隊のウォラー少佐は無罪となったが、スミス将軍は有罪となり軍を去った。

 歴史家たちは米軍が住民らを捕らえて強制的に働かせるなど、弾圧や残虐な行為をした結果、ワライ族が米軍に反抗したと指摘する。バラギガ教会の鐘の響きとともに、ワライ族はナイフとボロで武装して米軍と戦い、サマール島の住民5万人の死を招いた。住民虐殺に対する米国の公式の謝罪はいまだにない。虐殺に対するドゥテルテ大統領の語りと返還への訴えは、米国の偽善に対する彼なりの指摘だ。(1日・マラヤ、ネストル・マタ氏)

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