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シリーズ・連載

日本人戦犯帰国60周年

第4回 ・ 偉大なヒューマニスト ブニエ元モンテンルパ刑務所長

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所長時代に修士号、博士号を相次いで取得した学究肌のアルフレド・ブニエ元モンテンルパ刑務所長=イグナシオ・ブニエ中央銀行金融政策委員提供

 フィリピン政府によるBC級戦犯裁判で裁かれた死刑囚を含む100人を超える日本人戦犯は、キリノ大統領による恩赦が出るまで約5年間をニュービリビッド(モンテンルパ)刑務所で服役した。14人の死刑囚が一晩に絞首刑に処されるなど死と直面する厳しい現実に置かれたが、フィリピン刑務当局からは比較的寛大な扱いを受けたようだ。その象徴が当時のアルフレド・ブニエ刑務所長の存在で、その温かい人柄、寛容な態度は日本人戦犯たちに強い印象を残した。(一部敬称略)

 ▽運命の命ずる所

 1948年12月1日に日本人戦犯たちがマンダルーヨンの米軍収容所からモンテンルパ刑務所に移送されると、早速ブニエ所長が訪ねてきた。所長はまず「運命の命ずるところ、諸君は当監獄に入られた。気の毒に思う」と語り掛けたという。「独立国家の体面をもって諸君の取り扱いに注意する」と人道的な処遇に努めることも強調した。彼の上司のバラグタス刑務局長も日本人戦犯に好意的で、洗礼を受ける死刑囚の代父になったほか、53年3月に橋爪四郎ヘルシンキ五輪の水泳選手らが訪比した折には、死刑囚を含む戦犯の外出を特別に許可し、局長公邸のプールで橋爪選手らが水泳を披露するのを見学させた。

 ▽本物のヒューマニスト

 52年1月、賠償交渉に臨むため訪比した津島全権団に同行した記者団の1人に朝日新聞の辻豊記者がいた。辻記者は戦犯を取材しようとモンテンルパを訪ね、刑務所にカメラを持ち込もうとして看守に制止された。そのうちにブニエ所長が姿を見せ、次のように話して許可したという。「カメラは規則上、絶対に持ち込みは許されていません。しかし、あなたの持っているその妙な機械はいいでしょう。(中略)良いのを撮って下さい。家族の人々が喜ぶように」。辻記者はブニエ所長について「私の会った限りの、最も謙遜な、そして最も本物のヒューマニストであった。こんな人物を刑務所長に持っているフィリピンをうらやましく思った」と自著に書き残した。

 ▽日本軍が父親殺害

 アルフレド・ブニエは1899年に今のパサイ市で生まれた。フィリピン革命期にスペインと戦った経歴を持つ父親イグナシオは戦前、今のモンテンルパ市アラバンにあった「アラバン・ストック・ファーム」と呼ばれる動物飼育施設の管理人として働いていた。家庭が貧しかったため、アルフレドはスイス人ビジネスマンの家で書生として働きながら、苦学して高校を卒業。公立学校で教師などに就いた後、刑務局に勤務するようになる。33年に弁護士資格を取得、37年にマニラのビリビッド刑務所長に就任した。40年にはモンテンルパに開所されたばかりのニュービリビッド刑務所の所長となった。日本軍の占領時代も引き続き刑務所長を務めたが、戦争末期に悲劇に見舞われる。45年初頭に日本軍関係者がアラバンで暮らす父親のイグナシオをゲリラ容疑で連行、父親は行方不明になる。戦後、日本軍に協力したフィリピン人が当時の事件を後悔し、イグナシオの遺体を埋めた場所をアルフレドら遺族に教え、その遺骨が収容された。父は45年2月3日に死亡していた。

 ▽囚人も人間

 ブニエ所長の次男で、モンテンルパ市長やアロヨ政権期の報道長官などを歴任したイグナシオ・ブニエ中央銀行金融政策委員(68)=現職=は、「父は『囚人は人間だ』という哲学を持っていました。法律を犯した者は罰するのではなく、矯正させるべきだというのです。刑務所長に就任すると、それまで刑務所で使われていた鉄製の足枷(あしかせ)を廃止したりしています。のち『近代行刑の父』と呼ばれました」と語る。刑務局長まで出世したアルフレドだが、晩年は刑務所の騒乱事件(58年)の責任を問われ、刑務局長を罷免されるという憂き目にあった。

▽憎しみの連鎖を止める

 戦犯死刑囚としてモンテンルパで服役した元憲兵軍曹の宮本正二さん(92)は、「中村元大尉ら14人が処刑された時も最後まで見届けてくれるなど、ブニエ所長は日本人に理解のある人でした」と振り返る。キリノ大統領の恩赦で帰国した元戦犯たちが結成した「問天会」は、66年にブニエ元所長夫妻を日本に招待し、日光などを案内して感謝の意を表した。息子のブニエ金融政策委員によれば、アルフレドは訪日中に日本人記者から、父親が日本兵に殺されたにもかかわらず、捕虜となった日本兵に寛大な取扱いをしたことの理由を聞かれ、「憎しみと暴力のサイクルは止めなければならない」と答えたという。(澤田公伸、終わり)

(2013.8.19)

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