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シリーズ・連載

日本人戦犯帰国60周年

第3回 ・ 戦時下の受難、「赦し」の背景。キリノ大統領の恩赦令

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妻アリシアと語らうキリノ大統領=島根県安来市の加納美術館提供

 フィリピンBC級戦犯裁判で死刑や有期刑を宣告され、ニュービリビッド(モンテンルパ)刑務所に服役していた100人を超える日本人戦犯に対し、ちょうど60年前の1953年7月に恩赦令を出したキリノ大統領。彼は、戦争末期に市民10万人が犠牲になったと言われるマニラ市街戦で妻子4人を日本兵に殺された。永井均・広島市立大学准教授の近著『フィリピンBC級戦犯裁判』(講談社)によれば、キリノ大統領が議会での承認を必要としない特赦で日本人戦犯を釈放、減刑した背景には、冷戦の世界情勢や日本との賠償交渉の行き詰まり、53年11月の大統領選、助命嘆願運動の高まりや刑務当局の財政軽減などがあったとされる。加えて、キリノ家関係者へのインタビューからは、キリノ政権を支えた弟アントニオ・キリノの進言も大統領の決断を促した、との見方も浮かび上がってくる。(一部敬称略)

 ▽2歳の幼子を仮埋葬す

 マニラ戦当時、上院議員だったエルピディオ・キリノの家族は、フィリピン総合病院に近いマニラ市エルミタ地区のコロラド通り(現在のフェリペ・アゴンシリョ通り)に住んでいた。45年2月9日午後、キリノ邸が米軍の砲撃で一部破壊されたために、妻のアリシアが長女ノルマ、長男トマスらと一緒に近くにあった実家(アリシアの母親らが住むシキア家)に避難しようとした。しかし、実家の向かいにあった日本軍の防衛拠点にいた狙撃兵に銃撃され、アリシアとノルマは即死、アリシアが抱いていた当時2歳の娘フェが地面に投げ出された。フェはしばらく泣いていたが、近づいてきた日本兵の手で刺殺されてしまう。

 キリノ大統領のめいでマニラ戦を共に経験したミラグロス・パシスさん(80)は、「エルピディオは後で実家にたどり着きこの悲劇を知りました。まだ激しい戦闘が続いていたので、2歳の末娘の遺体だけ収容することができ、自ら木製のトランクに遺骸を納め、シキア邸に仮埋葬しました。それから一族を率いてパコ運河などを渡り、さらに避難したのです」と当時を振り返る。

 ▽マニラ戦体験した東京裁判判事

 後の東京裁判でフィリピン代表判事を務めることになるデルフィン・ハラニーリャもこの時、キリノ家の悲劇を耳にした。長女のエマ・ハラニーリャさん(2012年10月20日に94歳で死去)は生前、筆者に対し、「自宅が破壊されて決死の逃避行の最中にこの悲報に接し、父親が『ああ、何と痛ましい』と嘆いたのを覚えています」と明かした。エマさんによると、ハラニーリャ一家が避難する直前には、自宅近くにあったセントポール大学で日本軍がフィリピン人やスペイン人、インド人など多数の民間人を講堂に集め、爆弾を爆発させて殺傷する事件も起きていた。「その時、学校の壁が一部崩れおち、私達の自宅の前まで逃げてきた人がいましたが、すぐに追いかけてきた日本兵に銃剣で刺殺されました」とエマさんは振り返った。戦後、最高裁判事や司法長官を務めたハラニーリャは、戦争指導者らA級戦犯を裁いた東京裁判に参加する。ハラニーリャ判事は、一部の被告についてより厳しい量刑を求めたほか、被告らの無罪を主張した有名なインド判事パルの「反対意見」に対する批判を展開した「同意意見」を提出した。ハラニーリャ判事は、東條英機ら7名の絞首刑を含む被告25名を全員有罪とした東京裁判の判決には基本的に同意したものの、マニラ戦を体験した者として、残虐行為の関係者個人を裁くことの重要性も訴えた。

▽実弟の説得

 キリノは共和国独立後、最初の副大統領に選ばれる。その後、ロハス大統領が急死したため大統領に就任し、49年の大統領選で当選を果たす。冷戦の国際情勢や対日正常化に加え、新大統領が直面した外交問題の一つが、日本人戦犯の処遇に関するものだった。51年9月にキリノ政権は対日講和条約に署名するが、フィリピン議会は野党の反対でその批准を見送る。対日感情が依然厳しい中で、死刑囚を含む日本人戦犯105人の恩赦に踏み切った背景には何があったのか。キリノ大統領の実弟アントニオの娘であるアレリ・グスマン・キリノさん(69)は、「エルピディオ(大統領)の腹心として絶大な信頼を得ていた私の父、アントニオが恩赦を出すよう説得したようです」と語る。アレリさんによると、当時、賠償交渉が行き詰まっていたことに加え、キリノ大統領が戦犯を利用して金儲けしているといううわさが流れたこともあり、実弟アントニオは「カトリック教徒として相手を赦すべきだ」「助けられた日本は恩義を感じてフィリピンを支援するのではないか」などと、恩赦の決断を促したのだという。キリノ大統領の恩赦令について、永井准教授は「冷戦の現実を前に、キリノは対日協調の道を探り、戦犯に寛大な措置を講じた。逡巡(しゅんじゅん)の末の政治決断であり、将来の比日関係を見すえ、対日憎悪の連鎖を断つことの大切さをフィリピン国民に示し、日本国民にはフィリピン人の痛みへの理解を促した」と指摘している。(澤田公伸、続く)

(2013.8.12)

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