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比日新時代の芽生え

第6回 ・ 日本アニメ制作の比人「夢の仕事」と誇らしげ

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「いつかはアニメの監督になりたい」と話すモンティボンさん=12月26日午前11時すぎ、首都圏ケソン市で写す

 世界で多くの人々を魅了するアニメーション。フィリピンでは1980年代まで、米国製のアニメがあふれていた。しかし、今では日本のアニメが完全に定着し、フィリピンでのアニメ制作に関わる人材の多くが、日本アニメのファンだ。その一人に、首都圏ケソン市にある東映アニメーション・フィリピンズで、アニメーターとして働くカーライル・モンティボンさん(22)がいる。モンティボンさんは「アニメが好きなわたしにとって、夢の仕事です」と誇らしげに話した。

 東映がフィリピンでアニメ制作を開始したのは、26年前。東映アニメーション(本社・東京都)が、マルコス政権の崩壊した1986年、フィリピンの地元企業と合弁会社を設立したのが始まりだ。今では、契約社員を含む約250人が働き、東映アニメーションの作業量全体の約70%を担う。

 アニメの主要な作画スタッフは「原画マン」と呼ばれる。ポイントとなる静止画を描くのがこの「原画マン」で、その間の連続した動きを作画するのは「動画マン」だ。「動画マン」として一定の経験を積んだ後、優秀なスタッフが「原画マン」に昇進するのが、一般的だ。

 新人のモンティボンさんは「動画マン」として、日夜、仕事をこなしている。「まだ技術が未熟で、1週間に50枚しか描けません。上達して、速く描けるようになりたい」。

 小学生の頃からアニメを見ていたモンティボンさんが、本格的なアニメファンとなったのは、14歳の時。父が読んでいた雑誌で、日本の海賊冒険漫画「ワンピース」に関する記事を読んだことが、きっかけだった。

 「ファンになってから、親にねだって、漫画本を買ってもらいました」。今でも一番好きなアニメはワンピースで、「仕事でワンピースのアニメを描くのが、何よりの喜びです」と笑顔で話した。

 大学を卒業して、職を探していた昨年3月、インターネットを通じて知り合った友人に、東映フィリピンを紹介され、入社試験を受けた。

 5時間の試験では、与えられたテーマの絵30枚以上を描いた。馬を描く問題に一番苦戦したという。奮闘の結果、8月からの入社が決まった。「まさか、自分がアニメ制作に関われるなんて、想像していなかった」と興奮気味に、当時を振り返った。

 東映フィリピンの設立当初に入社した世代では、日本のアニメといえば、ロボットアニメ「ボルテスV」の印象が強かった。

 90年代以降、バスケットボールアニメ「スラムダンク」などがフィリピンの地上波で放映され、アニメ大国としての日本のイメージが確立されていった。

 フィリピンに常駐して今年で21年目となる、祖谷悟・東映フィリピン社長によると、90年代初頭は米国製のアニメが多かったが、今では完全に日本のアニメが定着したという。

 日本アニメが浸透すると同時に、東映フィリピンの入社希望者にも変化が出てきた。祖谷社長は、昔は仕事が欲しくて集まってきた人が多かったが「今ではアニメが大好きで、アニメが描きたくて会社に入る人が大半です」と話す。

 しかし、アニメは、制作現場の労働環境が過酷なことでも知られている。日本のアニメーター業界も、低賃金かつ長時間労働で、離職率が非常に高いという。

 モンティボンさんの給料は出来高制で、締め切りに間に合わすため、会社に泊まることも、しばしば。

 しかし、モンティボンさんは、アニメが好きなので、全くつらくないと話す。「自分が描いた映像を見たときは充実感がある。長くて厳しい道だけど、いつかはアニメの監督になりたい」と、明るく将来の夢を語った。(鈴木貫太郎、終わり)

(2013.1.7)

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