1965年の青年海外協力隊(JOCV)フィリピン事業開始から、60年が過ぎた。多くのボランティアがフィリピンに渡り、日比友好の懸け橋を少しずつ築いてきた。元JOCV隊員の西伸一郎さん(78)=岡山県出身=は、戦争体験がまだ身近な時代のボランティア経験者だ。
西さんは1971年12月から1975年4月にかけて、19次隊フィリピン16バッヂとしてJOCVに参加。当時のフィリピンは、日本との協力関係構築に向けた動きがありつつも、戦争の記憶と日本に対する強い警戒心が残る時代だった。1974年発効の日比友好通商航海条約は、1960年の署名から効力を持つまでに14年の年月を要した。
バギオ市の農業省殖産局農業試験場で、西さんは野菜栽培に携わった。州内で生活する農家に、キャベツや白菜、カリフラワーなどの栽培技術を教えた。カラシナ、ペチャイ、エンドウ豆の採種や、種芋、種子生産試験も行った。カウンターパート助手と2人で作業にあたり、農家を巡回する日々。西さん自身が作業を実践し、身振り手振りで比人に知識を伝え、言語の壁を乗り越えた。
▽身近な日本軍の爪痕
「過去の戦争については忘れるが、戦争や日本が犯したことは忘れないようにしてくれ」。現地の人々と戦争の話をした時の一言が、西さんの記憶に印象深く残っている。
西さんのボランティア当時は、戦後わずか25年。地域の人々と戦争の話をすると、知人の家族が日本軍に殺されたと語る比人も多かった。このため、西さんはバギオ以外では目立たないように意識した。「日本人か?」と聞かれたら、タイやモンゴルなど、日本人以外の人種を答えた。
着任から半年後、現地の人々とのコミュニケーションに慣れてきた頃だった。西さんは助手の実家に3日間滞在し、夕食後に助手の父親から戦時体験を聞いた。助手の父親は、兄弟と叔父が日本軍に殺されていた。自身も、元抗日ゲリラとして、何人もの日本兵を殺してきた。
「お前のフィリピン人を見る目は、戦争中の日本兵とは違う」。助手の父親が西さんに語った一言には、日本軍と対峙した悲しい記憶と、日比の人々がともに歩み始めた友好の萌芽が、ともにあった。(宇井日菜)