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シリーズ・連載

移民1世紀 第3部・新2世の闇と未来

第1回 ・ 行方不明の父はどこに

 日本人のフィリピン移民開始から百周年を迎えた二〇〇三年四月下旬。西ネグロス州バコロド市内のホテルで比日系人会連合会(会員約一万人)の第七回全国大会が開かれた。参加者は、戦後、比に取り残され苦難の道をたどってきた日系二世とその子、孫ら約二百五十人。「失われた二世の戦後」を日本出稼ぎで取り戻そうと熱い議論が続く中、会場外...

第2回 ・ 「日本人2世」との溝

 戦前・戦中生まれの日系二世と同様、日本人を父親に持ちながら、西ネグロス州バコロド市在住のマイケルさん(26)は「私は日系人なのでしょうか」と自問する。二〇〇三年四月、同市でフィリピン日系人会連合会の全国大会が開かれた時も、消息不明の父親の手掛かりを求めて足を運びながら「日系人会に入っていないから」と会場の扉を開くこと...

第3回 ・ 日本出稼ぎ機によどみへ

 戦前、フィリピン最大の日本人コミュニティーがあったミンダナオ島ダバオ市。アバカ(マニラ麻)栽培に将来をかける農村出身の男たちが続々と入植し、邦人人口は最大で二万近くにまで膨らんだ。

第4回 ・ 残された道は「日系比人」

 ミンダナオ島ダバオ市で二〇〇三年八月下旬、日本人のフィリピン移民百周年を記念するイベントがあった。戦前・戦中に比へ渡った日本人移民の子にあたる二世が苦難の戦後を振り返り、ゴードン観光長官や高野駐比日本大使が日比両国の将来を語った記念式典。日系三、四世らの担ぐみこしが市内を練り歩いた記念パレード・・。

第5回 ・ 「日本人の名前は嫌だ」

 二つの国の近さを測る尺度は歴史や政治・経済的関係、地理的距離などいろいろとある。「結婚」という物差しで測った時、フィリピンは日本にとって最も身近で、関係の深い国の一つになろうとしている。一組の男女が一緒になれば、親類縁者、知人ら数十人単位のつながりが生まれる。その結び付きは「経済連携」などより、ある意味でとても強く、...

第8回 ・ 「辱められない比人に」

 「日本人にはどうして心がない。子供もいるのに。死んだ本人もかわいそうでしょう?」。一年前の深夜。エドサ通り沿いにある葬儀場。三日前に急死したある日本人男性(50)の内縁の妻、リサさん(24)‖仮名、ルソン島ヌエバエシハ州カバナトゥアン市出身‖は低く、強い声でそう言うと、親類の胸で眠り続ける長男タロウ君(4)‖仮名‖に...

第10回 ・ 世代越え続く愛憎物語

 マニラ市のリム元市長が「浄化作戦」を始めるまで、首都圏随一の歓楽街だったエルミタ地区。中でも、バーやカラオケがひしめき合ったデルピラール、マビニ両通りは、外国人客とフィリピン人がさまざまな「愛憎物語」をつむいだ場所だ。

第11回 ・ 命を見放す人、救う人

 息子(6)が家人のフィリピン人を指差しながら叫んだ。「あのバブイ(ブタ)が!」。近くで様子を見ていた父の日本人男性(66)=東京都江東区出身、首都圏在住=は手元にあったゴム草履で息子の頭、尻、ほほを引っぱたいた。小さなほっぺたが真っ赤にはれ上がった。

第12回 ・ 「民間」に依存する支援

 日本人の父親から捨てられるなどして生活に困窮する「新日系二世」問題は、一九九五年の日比首脳会談で「将来の日比関係に影を落としかねない人権問題」として取り上げられた。しかし、政府レベルの取り組みは、その後ほとんど進んでおらず、民間団体の支援に依存する状態が続いている。首脳会談の前年、九四年から新二世の支援を続けている市...

第13回 ・ 重大な問題として認識

 日本とフィリピンの「民際交流」の深まりとともに深刻化してきた「新二世問題」。マニラ新聞は、在比日本大使館に公的支援の現状や日本政府の対応方針などに関する質問状を送り、回答を得た。連載第三部の締めくくりとして、主な回答内容(要旨)を紹介する。