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シリーズ・連載

移民1世紀 第2部・ダバオで生きる

第1回 ・ 沖縄移民2世の「古里」

 二〇〇二年八月二十五日、フィリピン航空のチャーター便が沖縄・那覇からダバオ国際空港に着陸した。降り立ったのは「慰霊と交流の旅」に参加したダバオ生まれの日本人約百四十人。戦死した親兄弟を供養しようとする人がいれば、生き別れた幼なじみとの再会や、子や孫に生まれ育った山野を見せるために参加した人もいる。「旅」は戦後三十八回...

第2回 ・ 両親の残影を追い求め

 「お父さん、お母さん。私を生んでくれてありがとう。清子ちゃん、盛正。生きている時に会いたかったよ・・」。二〇〇二年八月、「ダバオ慰霊と交流の旅」に参加した山田春子さん(68)=沖縄県具志川市=が、朽ちかけたヤシの切り株に語りかけた。左手には古ぼけた一枚の家族写真。切り株に挟み込まれた日本製タバコの煙が、雑草生い茂る野...

第3回 ・ 残留孤児「私は一体誰」

 ダバオ市内に住むその「日本人女性」は自分の本名、正確な年齢を知らない。育ての親のフィリピン人が戦後付けてくれた名前は「レテシア・アギラ」という。年齢は拾われた時に七、八歳ぐらいに見えたことから起算して「六十六歳」にしている。髪の毛は既に大半が白く、六十歳は恐らく超えているだろう。

第4回 ・ 母の国籍が運命分ける

 ダバオのマニラ麻産業は太田興業(一九〇七年設立)、古川拓殖(一四年設立)の二大回収・加工会社を中心に発展した。日本人移民は先を争うように原生林を切り開き、栽培面積は最大八万ヘクタール、生産量は比全体の六割を占めるに至った。

第5回 ・ 軍人から「比人の敵」へ

 一九四一年十二月から四年近く日本の軍政下に置かれたダバオ。日本人移民を父に、フィリピン人を母に持つ日系二世の多くも軍人・軍属として軍政支配に組み入れられた。そして、日本人の両親を持つ移民二世が日本へ強制送還された敗戦後、日系二世は母とともに戦地に残され「比人の敵」として戦後を生きた。その数は千人を超えるといわれる。

第6回 ・ 比人虐殺の代償と補償

 ダバオ郊外の閑静な住宅街に住む日系二世、児玉保之さん(75)の長い戦後は、日本人収容所からの脱走で始まった。敗戦直後、収容所送りになった十八歳の児玉さんを待っていたのは、戦中に比人を殺した日本人を探し出すための「首実検」。実検台の向こう側では、家族を殺された比人約五十人が待ち構えていた。「指差されたらなぶり殺しにされ...

第7回 ・ 耕地、護身のため結婚

 戦前も現在と同様、外国人の土地所有は認められていなかった。ダバオに入植した日本人移民はバゴボなど少数民族の比人女性と結婚、女性の家族から土地を分け与えてもらい、妻名義にする形でマニラ麻の栽培地を拡大していった。

第8回 ・ 2世たちの闘いと救済

 ダバオ市郊外の新興住宅地に「カイ・アベニュー」と呼ばれる通りがある。日系二世の甲斐美智子さん(72)は「冗談ですよ」と照れ笑いを浮かべるが、二百メートル足らずの通りを行くと「甲斐」と呼ばれる理由がよく分かる。

第9回 ・ 日本就労に将来賭ける

 ダバオ日本人会のジュセブン・オステロ会長(34)は日系三世。父の日本名は「タクミ・ミノル」という。祖父は一九三九年に祖母の比人女性と結婚した「タクミ」という日本人男性。祖父関係の書類や写真は戦後、祖母が焼くなどしたため一切残っておらず、ダバオにとどまらざるを得ない日系人の一人だ。二〇〇一年に二世から会長職を引き受けた...

第10回 ・ 日本依存から自立へ

 ダバオの日系人支援を一九九〇年から続けている日本フィリピンボランティア協会(JPVA、本部・東京都調布市)。昨年六月には、ダバオ日系人会の敷地内にミンダナオ国際大を創設、日本の高齢化問題と比の環境・貧困問題をリンクさせ、日比双方の課題に取り組む人材の育成を進めている。同協会の網代正孝会長(64)=浄土真宗延浄寺住職=...