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8月22日のまにら新聞から

大統領「彼のような人が必要」 ニノイアキノ記念日に声明 前大統領はマルコス家復権批判

ニノイ・アキノ元上院議員の暗殺から35年経過。ケソン市など各地で追悼式典

[ 1448字|2018.8.22|社会 ]
ミサに参加するアキノ前大統領(右)とロブレド副大統領(中央)=副大統領事務所提供

 マルコス政権下で暗殺されたベニグノ(愛称ニノイ)・アキノ元上院議員を追悼するニノイ・アキノ・デーの21日、マニラ空港や首都圏ケソン市のサントドミンゴ教会、マカティ市のアキノ元上院議員像前で献花や式典が行われた。ドゥテルテ大統領は暗殺から35回目の記念日の声明で「この国を明るく、より良い方向に導くには彼のような人物がもっと必要だ」と同氏を称えた。

 ドゥテルテ大統領は、アキノ元上院議員の息子であるアキノ前大統領に対しては厳しい評価を下し、マルコス家と親密な関係を持つ事で知られているが、声明では「ニノイ・アキノ氏は比に平和と民主主義をもたらすために闘い、命を落とした。彼の愛国心こそが改革を起こし、だからこそ私たちは現在、自由を享受している」と功績を高く評価した。

 ケソン市のサントドミンゴ教会では同日、ミサと式典が行われ、アキノ前大統領らアキノ家やロブレド副大統領、その支持者らがアキノ・カラーの黄色の服で参列。同教会は暗殺後、ニノイ・アキノ氏の葬儀が行われた場所で、葬儀時には200万人もの人々が訪れ、反マルコス運動大衆化のきっかけになった。

 アキノ前大統領は式典で記者団に対し「父がまだ生きていたら今もフィリピン人のために闘っていただろう」と語った。現政権下でマルコス家が復権していることに対しては「歴史を書き換えることはできない」と訴えた。また、昨年の式典に続き、ドゥテルテ政権下での違法薬物撲滅政策を人権面から批判した。

 16年の政権交代後、政界から引退しているアキノ氏だが、来年の中間選挙では自由党議員の選挙活動を応援する姿勢を示している。アキノ氏は「野党としては厳しい選挙となるが、真実はこちらの側にあり、こちらも良い候補を立てる」と語った。

(冨田すみれ子)

 アキノ氏と同じ飛行機に乗り、暗殺を目撃したジャーナリスト・若宮清氏(医療法人徳洲会顧問)の話

 アキノ氏はマニラ空港到着後に自分を殺す計画があること知りながら「私を歓迎して出迎えてくれる人もいる」と言い、帰国に踏み切った。アキノ氏と知り合ったのは彼が米亡命中にハーバード大で講演した1980年。講演が終わった後の記者会見で下手な英語で私が質問すると、いつも早口な彼がゆっくりと分かりやすい英語で答えてくれた。名前のスペルさえ知らず「AKINO」とノートに書いた私のペンを取り上げ、笑いながら自分で直してくれた。人の心をさっとわしづかみにするような魅力があった。一緒にサウジアラビアに行き、フィリピン人海外就労者(OFW)と彼が会合を持った時は「あなたたちが外国でなく比で働き、クリスマスを家族と一緒に過ごせる国にしたい」と語り掛け、OFWをとりこにしていた。その場にいた弁護士のマセダ氏(後の上院議員)が「これ(彼の魅力)こそ、マルコスが恐れているものだ」と言ったことも忘れられない。

 アキノ暗殺事件

 米国から1983年8月21日にフィリピンに帰国したベニグノ(愛称ニノイ)・アキノ元上院議員(当時50)がマニラ空港に到着した飛行機から降りる際、銃撃を受けて殺された事件。マルコス独裁政権の批判者として市民の支持を受けていたアキノ氏は、72年に布告された戒厳令下で逮捕され、死刑判決を受けた後、一時釈放されて米国に亡命していた。この暗殺事件を機に反マルコス運動が大きなうねりとなり、86年2月のアキノ政変(エドサ革命)につながった。比では毎年この暗殺事件の日は特別休日。

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