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ひと交差点

第3回 ・ 比日つなぐ活動に奮闘 ジャズ歌手の横川愛作さん

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自ら企画した東日本大震災の被災者支援コンサートで歌う横川愛作さん

 今月2日に行った東日本大震災チャリティーコンサートでは午前1時過ぎまで熱演、大成功を収め「本当にやって良かった」。

 1985年、プロテスタントの宣教師としてマニラで活動していた日本人の両親の元に生まれた。3歳離れた姉と共に、幼稚園から高校まで首都圏ケソン市の中華系のクリスチャン学校に通い、家では日本語、外ではフィリピン語、学校では英語、北京語、福建語にひたる日常を過ごした。日本のアニメや雑誌、ゲームが大好きで、日本語はアンパンマンとドラえもん、RPGゲームや攻略本で覚えたという。毎年夏休みには両親の故郷である大分県に帰省した。

 人生の転機は2006年、首都圏内の大学で情報技術を学んでいるときに訪れた。母親が直腸がんと診断され、親類や知人を頼って沖縄県内の病院に入院。横川さんは資金不足で母の元へは行けず、マニラで留守番を強いられた。「見舞いに行くこともできず、泣いて祈るしかなかった」

 手術が成功し、母親は奇跡的に回復したが、横川さんは、「とにかく自立して金を稼がねば」と日本での就職を決意。

 大学4年のとき、貯めた現金8万円を持ってこれという当てもなく、単身東京に乗り込んだ。

 初めは千葉県の友人宅に居候しながら、IT系企業で就職活動を繰り返したが、なかなか受からず、ホテル暮らしに。資金も尽きそうな2週間目に、やっと派遣会社を通じて渋谷のウェブデザイン会社に就職した。

 同会社で勤務した約11カ月間、横川さんは勤務後にバーテンダーやラーメン屋でも深夜までアルバイトをこなした。会社では海外の顧客への英語対応で、ラーメン屋では同僚の中国人留学生らに中国語で指導するなどし評価された。多くの人脈も築いた。

 マナーや敬語、日本の職場文化も吸収し、「内容の濃い11カ月だった」と振り返る。一方で、「日本人よりも、中国人やフィリピン人の友人と一緒にいる方が楽しかった。自分は本当に日本人なのか」。アイデンティティーをめぐって悩んだ。

 日本ならではの不自由さにホームシックも重なっていたとき、比の企業から引き抜きの話があり、帰国を決意。07年に帰国後は自身でウェブデザイン会社も立ち上げた。

 歌と出会ったのもこのころ。偶然行ったジャズ・バーで比人ジャズ歌手アーサー・マヌンタグさんの歌声に感激し、強い歌手願望が芽生える。しかし、仕事の傍ら歌を始めたが、生まれつきの発音障害で、「S」など特定の音が発音できず、周りに「歌手には絶対なれない」とまで言われた。それでもあきらめず、紹介を受けた言語療法士によるリハビリ、発声の個人訓練を2年間続け、障害を乗り越えた。

 その後も順調とは言えず、プロデューサーを名乗る比人男性にコンサート開催やアルバム作成の契約を持ちかけられ、約30万円をだまし取られるトラブルもあったが、コールセンターの管理職に転職。昼間はコールセンター勤務、夜は歌手業を続けているうちに人脈が広がり、10年4月ごろから歌手としての仕事が増えてきた。最近は、テレビのコマーシャルにも出演している。

 アイデンティティーの悩みも今は「両国の中間にあってこその自分」と吹っ切れた。10月に発表が決まったアルバム「アイ・ラブ・ユー」は尾崎豊やサザン・オールスターズなどのヒット曲のフィリピン語バージョンだ。90年代に注目を集めたテッド伊藤さんの夫人との出会いで、アルバム発売につながった。

 東日本大震災で日本人の精神文化に注目が集まる中、「今日本の歌を歌えるのは名誉なこと。比日をつなぐような存在の歌手になれるのではないか。これも巡り合わせ」と話した。(大矢南)

(2011.6.13)

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