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移民1世紀 第1部・1世の残像

第1回 ・ 「優しい道」は祖父の道

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谷底から山肌をはい回るようにしてバギオ市へ続くベンゲット道路。土砂崩れで再三通行止めになる

 二十世紀初頭、フィリピンは日本人の出稼ぎ先だった。約五千人が比へ渡り、建設・農園労働者としてバギオ市やダバオ市で根を張っていった。移民の大半は農村出身の男たち。比人妻と子供たちは太平洋戦争の戦地に取り残され、戦中・戦後を「比人の敵」として生きた。一九八〇年代半ばからは日比の位置関係が逆転し、日本へ向かう比人出稼ぎ者が急増。日比間結婚が年間五千件を超える中、比へ移住する日本人「新一世」も増え、離婚や子供の養育など新たな問題を生んでいる。二〇〇三年は「日本人の比移民百周年」。年間企画「移民一世紀」として日比の国境(くにざかい)で生きる人々の姿を追う。(酒井善彦)

 ルソン島中部に広がるパンパンガ・デルタ。その北端からベンゲット州バギオ市へ標高差約千五百メートルを駆け上がる古道がある。一九〇五年(明治三十八年)三月に開通したベンゲット道路(別名ケノン道路)だ。

 リンガエン湾へ注ぐブエド川に沿って約四十一キロ(有料区間三十三キロ)、岩肌がむき出しになった山々の間を縫うようにして走る。見通しの利かないカーブの連続。全幅は六メートルほど。対向車が来ると、思わずブレーキに足が掛かるが、走り慣れた地元車はブレーキランプを点灯させることなく坂道を上がっていく。

 通行料金は現在五ペソ。れっきとした有料道だが、料金所は一九九〇年の大地震から約八年間閉鎖されていた。料金徴収係のウィルソン・ティオさん(30)は「地震直後は、各所で土砂崩れがあり通行止めになった。九八年に再整備工事が終わるまでは料金を取れるような状態ではなかった」と振り返る。

 料金所の記録によると、平日の通行量は上下線合わせて千台程度。行楽客が高原都市バギオへ押し寄せる週末は、約三倍の三千台前後に跳ね上がる。一分間に二台強が目の前を通り過ぎる計算で、山間の道にしては結構な交通量だ。

 バギオ市はルソン島北部に広がる山岳部最大の都市。周辺部から同市へ入る道は、戦前に建設されたベンゲット道路(パンガシナン州ロサリオ町〜)とナギリヤン道路(ラウニオン州バウアン町〜、全長四十六キロ)、戦後完成したマルコス・ハイウエー(同州アゴオ町〜、同五十キロ)の計三本ある。

 状態は二〇〇一年に大規模整備されたマルコス・ハイウエーが一番良いとの評判だが、バギオ市で長年運転手などをしている日系三世、パトリック・ヨシカワさん(62)の評価は若干違う。

 「確かにマルコス・ハイウエーは良くなった。だけど、急こう配が続きすぎてジプニーやトラックには厳しい。車に一番優しいのは今もベンゲット道路。坂道と平坦な部分が交互にあり、車の負担が減る。人力だけで切り開いた道だからだろうね」

 平坦な場所には小集落と簡易食堂、休憩所などがあり、標高の低い場所から順に「キャンプ1、2、3・・」と呼ばれている。最後はバギオ市の数キロ手前にある「キャンプ8」。いずれも一九〇一年(明治三十四年)に始まった道路工事の飯場の名残だ。

 工事には、日本人も契約労働者として従事した。移民第一陣とされる百十四人は、〇三年十月にマニラ港へ到着。以後、〇四年末までに五千百人が渡比し、その大部分が道路建設に携わった。ヨシカワさんの祖父、長崎県出身のマスタロウさんもその一人。ヨシカワさんにとって「優しいベンゲット道」は、日本軍侵攻前に比で病死した祖父の残像でもあった。

     ◇

 「移民一世紀」の第一部では、ベンゲット道路建設を起点にルソン島北部へ散っていった移民一世たちの後ろ姿と二世たちの戦後を中心にリポートする。

(2003.1.2)

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