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移民1世紀 第1部・1世の残像

第2回 ・ 苦闘の現場「キャンプ3」

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1世紀前の飯場跡に立つ戦没者慰霊碑。敷地の一角からは「悪霊払い」のためという十字架が突き出ていた

 一九〇一年(明治三十四年)に始まったベンゲット道路(別名ケノン道路)建設工事では、労働者の寝泊まりする飯場「キャンプ」が計八カ所作られた。現在も地名として残る飯場跡の一つ「キャンプ3」は、標高約五百メートル付近にある。終点・ベンゲット州バギオ市(標高約千六百メートル)を山の頂上とすると、その名の通り「三合目」に位置しているようだ。

 道路開通後、バギオ市は米植民地政府によるルソン島北部支配の最重要拠点として機能。開通から四十年を経た太平洋戦争末期の四五年には、旧日本軍の第一四方面軍司令部がマニラから移され、ベンゲット道路はバギオ防衛上の要衝となった。特にキャンプ3付近は、同年一月から四月のバギオ陥落まで続いた防衛戦の拠点で、戦闘や飢えで多くの日本兵が命を落とした。七三年の厚生省などによる遺骨収集では、キャンプ3と数キロ先にあるキャンプ4で計約二百七十柱の遺骨が見つかったという。

 現在のキャンプ3は、数十戸の家が寄り添う山あいの小集落。住民は岩山の合間にわずかに残った土を耕し、ブロッコリーなどを栽培して生計を立てている。土を掘ると、今でもヘルメットや銃弾が出てくるという。しかし、車の列が途切れた途端、静寂に包まれる穏やかな風景に、百年前、そして六十年前に生きた日本人の苦難を重ね合わせることは難しい。

 地域の住民は、これら過去をどの程度知り、どのような形で心に刻んでいるのだろうか。八二年三月、日本兵の遺族が建立した慰霊碑横に住むジャソン・バルブエナさん(30)は言う。

 「ベンゲット道路は米国人が日本人と一緒になって建設した一番古い道と聞いているが、いつごろできたかは知らない。慰霊碑もなぜこの場所に建てたのか、日本人から直接聞いたことはない。もう一つ日本人の建てた碑があったが、借地代を二年間払わなかったから撤去させた」

 慰霊碑正面の碑文は日本語。「はるかなる故国から永久の鎮魂と平和を常に祈念しているのです」と記されている。一方、岩山に面した背面は英語で「キャンプ3で戦い、命を落とした日本と比の人々のためにこの碑を建立する。碑が日比両国の相互協力と真の友好関係確立に寄与するよう願う」。建立当時、まだ根強かったであろう対日感情への配慮が行間からにじむ。

 周囲を歩いていると、奇妙なものが目に入った。細めの丸太を二本組み合わせた十字架だった。碑を取り囲む植え込みから、十字架部分だけが宙に突き出ていた。昨年、地域の古老が悪霊を追い払うために立てたという。

 碑近くにいたロミー・アトンサ君(12)に「悪霊」の正体を聞いた。

 「日本人はフィリピン人を殺した。おじいさんやおばあさんからそう聞いた。悪霊は日本人かも。だけど(慰霊に来た)日本人がお菓子をくれるから怖くないよ」と返ってきた。(つづく)

(2003.1.3)

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