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移民1世紀 第2部・ダバオで生きる

第6回 ・ 比人虐殺の代償と補償

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妻ナタリヤさんと自宅前に立つ児玉さん。抗日ゲリラに指3本を切られた左手には常に白い手袋をはめている

 ダバオ郊外の閑静な住宅街に住む日系二世、児玉保之さん(75)の長い戦後は、日本人収容所からの脱走で始まった。敗戦直後、収容所送りになった十八歳の児玉さんを待っていたのは、戦中に比人を殺した日本人を探し出すための「首実検」。実検台の向こう側では、家族を殺された比人約五十人が待ち構えていた。「指差されたらなぶり殺しにされる」。人目を盗んで脱走、山へ逃げ込んだ。

 「自宅には(比人の)母がいましたが、抗日ゲリラがうろうろしていて、帰ることはできなかった。親類宅で隠れていたら、ゲリラの日本人狩り部隊に捕まってしまった」。抵抗した際、ボロ(長刀)で切り付けられ左手の人差し指、中指、薬指を切断。一命は取り留めたものの、その後三年間は山中の竹小屋で隠れ続けた。一九四八年になって山を下り、中国人の店で中国系比人を装って働き始めた。「フィリシシモン・メロディ」と名乗り、話せなかったビサヤ語を必死で覚えた。

 首実検を逃れて山にこもらなければならなかったのはなぜか。

 児玉さんは言う。「カリナン日本人小学校高等科を卒業後、海軍南西方面海軍航空廠(しょう)ダバオ分工場第二支署荒川部隊の整備員として徴用されました。敗戦間際の一カ月は山に入り、最後の一週間は毎晩切り込みを続けた。ゲリラ掃討作戦ということで、十家族ぐらいを皆殺しにした。やらなければひきょう者呼ばわりされるし・・」

 戦友たちが日本へ引き揚げた後、比に残り「ゲリラ掃討」という虐殺行為の責めを背負わされた児玉さんだが、日本政府からの補償、恩給などは一切受け取っていない。

 一九八六年、東京で開かれた海外日系人大会に比代表として参加した際、厚生(現厚生労働)省へ足を運び、補償実現を直訴したこともあった。しばらくして同省から手紙が届いたが、返答は「(召集・徴用者の)資料に名前がなく資格外」と素っ気なかった。手紙はその場で破り捨てた。

 九三年二月には、児玉さんら日系二世が中心になって日弁連に人権救済を申し立てた。日本政府に対する要求には、身元のはっきりしない二世の身元調査などとともに「軍人・軍属名簿の公表と関係援護法規に基づいた元軍人・軍属に対する適切な援護措置」も入っていた。

 弁護団は「旧日本軍は比上陸後間もなく、移民一世の本籍地を確認した上で、本人及び二世の軍人・軍属適格者名簿を作成、それに基づき、軍人として現地応召し、軍属として徴用した。しかし、日本政府は身分関係、国籍関係、軍務に従事したことなどの証明が不十分として(二世らの)援護要求を門前払いにし調査に取り組むことさえしなかった」と迫ったが、「救済」は現在も実現していない。

 「なんちゅうか、戦争の時は私たち(日系二世)を利用しておきながら、戦争が終わったらそれで終わり、と思っている。記録がない、とはどういうことか。若い役人連中はもう(戦争のことを)忘れておるのでしょう」。元軍人・軍属の二世たちが一人、また一人と亡くなっていく中、児玉さんの憤りは深まるばかりだ。(つづく)

(2003.4.20)

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