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移民1世紀 第1部・1世の残像

第9回 ・ 比で生きる日本人兄妹

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両親の墓前で祈りを捧げる寺岡マリエさん。墓石の周囲ではツツジが茂る

 「まじめで勤勉、やり始めたことは絶対やり遂げる。戦前はそのことを『大和魂』と呼んでいました」と兄。妹も「正直、勤勉、誠実。そして時間をきちんと守る。これが日本人だと私ははっきり言えます」。目の前には、明治生まれの父から受け継いだ「日本人たること」を忠実に守る兄妹がいた。

 ベンゲット州バギオ市にある日系人組織「北ルソン比日基金」のカルロス寺岡理事長(72)‖在比日本大使館バギオ名誉総領事‖とその妹、マリエ・ドロレス・テラオカ・エスカーニョさん(68)。二人は、一九一九年(大正八年)に渡比した父宗雄さん(一九〇〇年生まれ、山口県大島町出身)と比人母アントニーナさん(〇二年生まれ)の間に生まれた日系二世。敗戦直後いったん日本へ強制送還されたものの、戸籍に名前が掲載されていなかったことから「無国籍状態」となり、比へ戻った過去を持つ。

 父宗雄さんは米国人相手の建築業で成功したが、開戦直前の四一年八月に同市で病死。兄二人は戦中憲兵隊と比人ゲリラにそれぞれ殺され、母と弟二人は砲撃で命を落とした。戦争を生き抜いたのは、十四歳の兄と十一歳の妹だけだった。

 寺岡理事長は振り返る。「大島町に帰り、父の送金で建てられた立派な家にも住みました。今の日本人は『比は貧しい国』と言うが、当時の日本はすごく貧しかった。バギオでは靴をはいていたのに日本ではわら草履でした。私は日本の教育を受けていましたから、入籍されていれば日本にとどまったと思う。無国籍はつらいので、五二年に比へ戻ってきたのです。二十一歳でした」。妹も三年後の五五年「兄がいなければ私は生きていなかった。たった一人の家族で、生き別れになった後は寂しくてたまらなかった」と後を追った。

 反日感情渦巻く比へ帰ったマリエさん。帰国後は十年間の生活で心と体に染みいった「日本人」を隠す日々を強いられた。

 「日本語で兄に話しかけても答えてくれない。一カ月は泣き通しでした。(六〇年に結婚した比人の)夫の母はやたら頭を下げるな、比に住むなら比人になれと言いますが、身のこなしだけはどうにもなりません」。結婚後は義母に「日本人は裏切り者。ウソをつく」と言われたことをバネに一男四女を育て上げた。

 そんなある日、マリエさんは母の夢を見た。「白い花が咲いている下にいる。早く来てくれ」と言う。この話を聞いて寺岡理事長らが爆死現場へ行くと、白い花の下に骨のかけらが一つ落ちていた。「小さなかけらでしたが、それが母だと思う。持ち帰って父の墓の横に埋葬しました」と同理事長。

 今、父母の墓は戦前からあるバギオ日本人墓地の一角にひっそり並んでいる。自宅の庭に植わっていたというツツジに囲まれた父の墓碑には「妻と六人の子供から愛する父へ」。母の墓碑には戦争中に亡くなった兄弟四人の名前、そして「寺岡家の生存者から愛する母と兄弟へ」と刻まれている。

 戦後の比を「日本人」として生きてきた寺岡家の生存者。その名前は、戦後半世紀以上を経た九八年三月、日本人弁護士らの尽力により、「刈呂」「マリヱ」と父の戸籍に記載された。その際、父母の婚姻も初めて登載された。二人がバギオ市で結婚式を挙げてから七十四年の歳月が流れていた。      (つづく)

(2003.1.10)

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