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移民1世紀 第1部・1世の残像

第5回 ・ 戦地に残った家族と柿

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父の植えた柿の木の前に立つバージニアさん(後方)と両親が日本出稼ぎ中の4世・シエミーちゃん。バージニアさんにとって兄弟の孫娘にあたる

 ベンゲット州バギオ市周辺には柿(かき)の木があり、その実は「KAKI」と呼ばれている。百年前、ベンゲット道路(別名ケノン道路)建設に従事した日本人移民が持ち込んだとされ、最低気温が十五度を切る十月から十一月にかけて小ぶりな実をつける。

 探し求めた柿の老木は同市郊外、急斜面に沿って茂る竹林を抜けた場所にあった。時は既に十二月中旬。食べごろの実はもうなく、熟し柿数個だけが葉の間から見え隠れしている。幹回りは一番太い部分で一抱えちょっと。高さは二十メートル近くある。樹勢は衰え気味だが、数メートル離れた地表では露出した根っこから若い幹が伸びようとしている。

 「この木は父が植えました。苗木は日本から父が持ち込んだか、日本人の知り合いに分けてもらったのでしょう。樹齢は八十年ぐらいで毎年甘い実をつけます。小さいころはビワやミカンも植わっていましたが、今は柿の木だけになりました」。バギオ市在住の日系二世、大久保バージニアさん(68)は幹に手のひらをあてながら柿と父の話を始めた。

 父親は広島県豊栄町出身の大久保登さん。「ベンゲット道路建設に携わった後、バギオで大工をしていた」と言う。しかし、同市の日系人組織「北ルソン比日基金」(カルロス寺岡理事長)作成の資料によると、登さんは一八九四年(明治二十七年)一月生まれで、工事の終わった一九〇五年三月にはまだ十一歳。実際には二〇年代に入ってからフィリピンへ渡り、二五年ごろ同市で十四歳年下のイゴロット民族の女性と結婚したようだ。

 柿の木の傍らには、登さんが結婚する際に新築したという山小屋風の自宅が現存している。今でこそ周囲には人家が点在しているが、戦前は竹や松の生い茂る山中の一軒家。戦中は「ほとんど家から出ず、周囲で取れるイモを食べて隠れるように生活していました」とバージニアさんは話す。

 妻と子供七人、誰一人失うことなく戦中を生き抜いた登さんだったが、敗戦直後に日本へ強制送還。戦地に残された妻のベロニカさんは三十七歳。子供たちは、長女のハツノさんが十七歳、四女のバージニアさん十歳、末娘の六女ロサリナさんはわずか一歳四カ月だった。

 登さんは戦後二十年近くたった六四年に一度だけバギオへ戻ったことがある。六〇年に病死した妻ベロニカさんの墓参りをするためだったという。しかし、そのままバギオにはとどまらず、戦前・戦中をすごした山小屋に三カ月間ほど滞在した後に日本へ帰国、八三年十月に八十九歳で亡くなった。

 「父がなぜ六四年にここに残らず、その後帰ってこなかったのか、私には分かりません。遺骨の一部はバギオに送られ、母の墓の隣に埋葬されています」。そう言うバージニアさんは今も独身で、両親の日本出稼ぎで比に残された日系四世らの世話をして暮らしている。十歳で父と生き別れた苦労は想像に難くないが、戦後については「『日本人の子だ!』とよく石を投げつけられましたね」と微笑するだけ。柿、父の話のようには多くを語ろうとはしない。(つづく)

(2003.1.6)

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