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移民1世紀 第1部・1世の残像

第4回 ・ 自爆で家族死守した父

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自宅居間で父親の旅券を持つオタチさん(左)。床下には父の遺体が埋葬されている。右隣は姉のキクさん

 ベンゲット州バギオ市を中心にしたルソン島北部には、戦前フィリピンへ渡った日本人労働者の子供、日系二世が四百人近く生存している。同州ラトリニダッド町に住む加藤オタチさん(74)もその一人。畑に囲まれた自宅を訪ねると、ラミネート処理された一枚の紙を見せられた。

 一九二二年(大正十一年)四月十七日発行の「日本帝国海外旅券」。薄れかけた肉筆部分には「神奈川県足柄上郡北足柄、加藤関造、三十五歳と四カ月」とある。オタチさんの父・関造さんが八十年前に日本から携えてきた旅券だった。

 オタチさんによると、関造さんが初めて渡比したのは十四歳の時。地租改正などで困窮を極めた農村からの集団出稼ぎで、兄・松造さんも同行していた。他の日本人労働者と同様、ベンゲット道路建設に従事した後の一九一〇年にイゴロット民族の女性と結婚、ラトリニダッド町に住み着いてゴボウや大根の栽培を始めたという。

 結婚から約十年後に一時帰国した。旅券は比再入国の際に使ったようで、「右は農業従事のため再び米領比律賓(フィリピン)群島へ赴くに付き・・」と渡航目的が記されている。旅券の出入国記録によると、二二年五月二日に横浜港を出発、同月二十六日に在マニラ日本領事館で住民登録を済ませている。英国領・香港経由で米国領・比へ入ったため、裏面には英米両国の査証も。

 一時帰国の前後に生まれた子供は三男六女。五女のオタチさんは「兄や姉たちは家事や農作業の手伝いに追われ学校にはほとんど行けなかった。私は兄らのおかげで日本人学校にも入れてもらえた。生活は楽ではなかったけれど幸せな子供時代だった」と一家十一人の生活を振り返る。

 十一人のうち父と兄三人が太平洋戦争中に命を落とした。四三年から四五年にかけ、兄三人が比人ゲリラに殺されるなどして死亡。父・関造さんも四五年五月上旬、「日本人の私たちが生きていれば、子供たちに迷惑がかかる」と手りゅう弾を抱いて兄・松造さんとともに自爆、息子たちの後を追った。

 後には母と六人姉妹だけが残された。三女のキクさん(81)は「母方の姓を名乗ったが、隣人からは『バカヤロウ』『ドロボー』とののしられた。畑に出るのは深夜だけ。父の残した大根やゴボウ、サツマイモを食べて生き延びた」と話す。

 戦争の終わった四五年から四八年にかけ、独身だったオタチさんと妹二人は「わが身を守るため」比人男性と相次いで結婚。土地も比政府による日本人関連資産の没収を免れるため、すべて比人の親類名義に変更したという。

 「私たちは家族の生活を戦争で失いましたが、自宅や土地は戦後もそのまま残りました。父もそこにいます」。オタチさんはそう言うと居間の床を指さした。床下には、自爆後に家族で拾い集めた関造さんの遺体が埋葬されている。そして、夕やみ迫る玄関先の庭では、「父の形見」ゴボウが大きな葉を広げていた。

(つづく)

(2003.1.5)

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