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戦後60年 慰霊碑巡礼第1部ダバオ・セブ編

第1回 ・ 生きる碑、朽ちる碑

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逃避行の現場、スアワン川の河川敷に残る戦没者慰霊碑と栄さん(上)。栄さん宅にある山田部隊の「激戦地追悼碑」。03年から2年続けて慰霊団がの足が途絶えている(下)

 約三十年前、初老の日本人男性数人が日系二世、栄幸一さん(77)‖ミンダナオ島ダバオ市マリログ地区‖の元を突然訪れた。「日本陸軍山田部隊の生き残りです」と名乗り、栄さんの自宅敷地内に戦友のための慰霊碑を建てたいので土地を提供してもらえないだろうかと申し出た。

 栄さん宅はダバオ川の支流、スアワン川のほとり近く。敗戦間際、日本兵と日本の民間人が逃げ込み、飢えや疾病、戦闘で命を落としたタモガン渓谷の入口にある。山田部隊も同渓谷で多くの戦死者を出したという。

 自身も一九四四年から約一年間、旧日本陸軍工兵隊に属し、同渓谷へ敗走した経験のある栄さん。「慰霊碑を建てても守る人がいない。日系二世が近くにいると比人に壊されないだろうと思ったのでしょう。わたしも軍人でしたから、どうぞ(土地を)使って下さいと言いました」と当時を振り返る。

 「激戦地追悼碑」と名付けられた慰霊碑は一九七四年に完成し、「一九四五年にここで戦死した多くの日本と米、比の兵士を追悼する」と英語の碑文が刻まれた。四年後の七八年八月には、台座部分に「我ら今、この碑前に立ちて語るべき言葉もない。限りなき春秋の身を国難に殉(じゅん)じて流した君ら将兵の鮮血は今、ふるさとに輝かしきみどりとなりて燃えている(後略)」という日本語の碑文も新たに掲げられた。

 山田部隊の生存者・遺族はこの後、毎年欠かさず慰霊碑を訪れてきた。しかし、十年ほど前に山田元部隊長が亡くなり、二〇〇三年にはついに慰霊団の足が途絶えた。「日本から連絡がないので理由はよく分かりません。みな年寄りになっているからだと思います。もう二度と来ないかもしれません」と栄さんは言う。

 栄さん宅から歩いて十五分ほど離れたスアワン川の河川敷には、もう一つ日本人の建てた戦没者慰霊碑がある。一九七四年、日本政府の遺骨収集団が遺骨を一時納めるために設置し、収集活動終了後にコンクリート製の台座に木製の碑を埋めて慰霊碑とした。遺骨収集は一週間ほど続き、最後は台座部分内部の納骨室がほぼ埋まったという。

 今は雑草や野生のバナナの木、竹などに覆われて、碑を目的にこの場を訪れる人はいない。深い緑の向こうからせせらぎの音が聞こえてくるが、川面は見えない。碑へ案内してくれた栄さん自身も一九九〇年代半ばから約十年間、訪れることはなかったという。

 木製の碑はすでになく、台座部分には盗掘被害とみられる大きな穴。納骨室内はこけむし、風に乗って穴から吹き込んだらしい竹の葉が朽ちている。日本の遺族らにとっては逃避行の現場に立つ大切な慰霊碑だが、それと知らずに訪れた人には、もはや正体不明のコンクリート塊にすぎない。

 今年七十八歳になる栄さんは、自宅に建つ山田部隊慰霊碑を大切に守るよう息子や孫に言い聞かせている。毎年八月には家族で線香を上げ、花を手向ける。しかし、河川敷にある慰霊碑は、息子たちにその由来を詳しく伝えていない。家族でお参りすることもないという。   (酒井善彦)

 太平洋戦争の激戦地フィリピンでは、旧日本軍の戦死者約二百四十万人の二割強、約五十二万人が命を落とした。戦後、戦友や遺族の手で比国内に建立された日本関係の慰霊碑は少なくとも百六十六(厚生労働省調べ)に上るが、近年は遺族らの高齢化で参拝者が減り、朽ちる碑も目立つようになった。これら慰霊碑の建つ元戦場は同時に、日米両軍の戦闘に巻き込まれて死亡した比民間人百十一万人(比政府推計)の最期の場でもある。二〇〇五年は戦後六十周年。日本関係の碑を訪ね歩きながら、碑と隣り合って生きる人々の思いや戦争の記憶に耳を傾けた。

(2005.1.2)

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